C)心は鏡

心を鏡に譬えてみる。
鏡には、鏡面以外に、枠と裏面があるように、自我意識を枠、顕在領域を鏡面、潜在領域を裏面に譬えてイメージする。

枠は、宇宙創造の根源エネルギーである創造性・意志性・生命性に繋がる霊意識に支えられている。因みに、我々の心に神が宿るという意味は、このことである。枠は、鏡面に映るものを意識することができるし、それらを思考・取捨選択し、それらに対し行動を起こすこともできる。意思決定の力を持っている。

一方、鏡面に映るものは、体を含めた物質的な外部環境からの刺激・感覚だけではなく、それらが原因となって引き出される法則、論理、概念、イメージ、記憶、感情など、即ち、非物質的な領域(あの世)からやって来るものも含まれている。例えば、この世の美しい女性を見ることで引き出される、あの世からの本能的な情動を想起すれば分かり易い。これら、あの世からやって来るものは、必ずしも、この世からの刺激を必要とするものではなく、枠があの世を思考・想像するだけでも、鏡面に映し出される。

この仮説上の譬え話は、「人は性悪でもなければ、性善でもない」ということを意味している。悪も善も、鏡の外からやって来て、鏡面に映し出されているということである。即ち、外部から来るものによって、悪人にも、善人にもなり得るということなのだ。

次に、裏面の仕組みを、「紐付け」という譬えで、表現してみよう。「紐付け」は、鏡面に映し出されないものが多い。裏面の中で、無意識的に、反射的に、外部から取り込み、そして、外部に作用する、そのような既設レールである。これには、「先天的・本能的なものと後天的な繰り返しによって作られたもの」の2種類がある。

これを、性悪性善の例で説明すれば、裏面に悪の概念とそれを支える感情に太い取り込みレールが敷かれている鏡は、略、無意識の内に、悪行を為すということだ。だが、この悪も外部から来るものであることは、はっきりと認識する必要がある。従って、このような鏡でも、その時・その場の環境によっては、善行を為すことがあり得るのである。

一方、「紐付け」は、前述の通り、鏡面に映し出されないものが多い。しかし、鏡(心)の訓練によって、或る程度は、映し出すことができる。鏡面にはっきりと映し出されないものを見ることができれば、その鏡は、「紐付け」を、完全ではないものの、枠(自我意識)によってコントロールできる。

裏面が見えるようになれば、意味や価値を心にもたらすものは、或る種の感情であることがはっきり理解できる。美しい花を見て、心が歓喜するのに、一切の理屈は要らない。そのような「紐付け」が、裏面に出来上がっているということなのだ。

裏面が全く見えずに本能的な情動に対し完全に無意識であれば、動物と変わりはない。「自分は自由に生きている」と思っているが、実は、本能という「紐付け」の奴隷になっているだけだ。

この仮説を真理とするならば、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の意味も分かって来る。なぜなら、罪は、鏡の外からやって来るからである。

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