08)心と自我意識

心は、本来、あの世のものだが、この世(特に、物理脳)とあの世(特に、原型)を、次元を超えて接続する存在である。本仮説はこの前提に立っている。

心は、自我意識が関与する顕在領域と自我意識が関与しない潜在領域に分かれる。自我意識とは意志、知覚、思考、記憶、感情、決断、行為などを、自己同一的な主体として遂行し、これらを他者や外界から区別して意識するものである。そして、人は、この領域での心の働きだけを意識することができる。言い換えれば、自我意識が働くことにより顕在領域が作り出されるのである。一個の自我として創造主から分け与えられた自由意志を駆使して、自然宇宙の創造に参加するよう運命付けられている領域でもある。
一方、自我意識が関与しない潜在領域を通じて、集団的・個的な進化・変化によってあの世の原型に組み込まれた無数の感情を含めた情報や信号(この世の経験に絡めて具現化した法則・論理・概念・イメージ・記憶・感情などをベースとする)が、強弱様々に、この世の肉体やその刺激反応に紐付けされている。具体例を挙げてみよう。肉体が発生し、無意識的に、自律的に、多くの機能が働いているのも、この領域があるからである。本能や集合記憶感情伝達なども、この領域が重要な働きをしている。個々人の無意識の癖、嗜好、思考パターン、行動パターンなども同様である。
これらとは対照的に、自我意識は、あの世の原型・個別領域・共通領域(「この世に一番近いあの世の領域・その1」の項を参照のこと)から、意識的に、この世の経験に絡めて集団的・個的に具現化した法則・論理・概念・イメージ・記憶・感情などを、顕在領域に取り込むことができる。更に、想像力・連想力・推察力などの思考を駆使し、原型・個別領域・共通領域を超えて、更に、あの世の奥深くまで探索することができる。

肉体や感覚器官からの刺激は、心の顕在領域に入るものと潜在領域に入るものとに分かれる。五感刺激の多くは心の顕在領域に入って来る。そして、ここから、あの世に伝達される。一方、心の潜在領域に入り込む刺激は、無意識的に、あの世の原型とのやり取りが行われ、肉体では反射的・自律的な反応が生じる。

自我意識を訓練することで、或る程度は、この潜在領域の中を見ることができる。潜在領域で行われる自律的な作用は、自我意識に照らし出すことで意識的な対応が可能になり、自由意志の働く余地が生じる。そして、紐付けからの自由を獲得することができる。物質文明下に於いては、本能のまま行動することが自由だと勘違いしている人が多い。従って、これは大切な認識である。

まず、自我意識の覚醒から考えていこう。気絶、全身麻酔、完全睡眠などの状態では、顕在領域に、自我意識を支える非物質エネルギー(覚醒を司る生命エネルギー、以下、覚醒エネルギーと呼ぶ)は存在しない。言い方を換えれば、自我意識は覚醒していない。夢を見ている時の顕在領域では、半覚醒の状態が不連続的に保たれている。幼児期の顕在領域での覚醒度は低いが、思春期以降、大人の意識状態まで、これが覚醒される。
この覚醒は訓練によって更に進化する。進化とは他者や外界から自己を区別して意識する状態が際立つことではない。顕在領域に於いて、更なる明瞭さが加わり、その力が持続性を増し、細部から広範囲にまで正確に広がることだ。結果としては、あの世で自己が他者や外界と繋がっていることが理解できるようになる。この状態は、単なる知識としての理解ではなく、それが真実であるという納得感・真理感・絶対感が伴う。例えば、愛(或る種の覚醒とも言える)について話せば、自己と愛する者を隔てる意味と価値を伴う感情の境が消滅するところまで、自我意識は拡大する。拡大した自我意識を支える覚醒エネルギーは、その分増大し、勇気、希望、喜び、一体感、安定感などが伴う。
或る人が森を探検する。その森は、果てしなく広大に見える。その人は、次の日から、毎日のようにその森を散策する。その人が一年後に見る森は、一年前と比べ隅々まで見えて、かなり小さく感じる筈だ。その人の心には、森に対する親しみや同一感のような感情が湧き上がっている。その空間に対し、自我意識が拡大しているのだ。感覚器官が見る森は同じでも、心が見る森は違っている。
この空間意識について、別の例も挙げてみよう。或る日本人は、台湾に長く住んでいた。帰国後も一年に一度は台湾を訪問する。この日本人と台湾を訪問したことのない日本人とでは、台湾までの距離感が全く違う。台湾を親しく感じる日本人には、台湾との距離が短く感じられる筈だ。
時間意識の拡大についても触れてみよう。或る人が、毎朝一連30分の体操を始める。初めの内は、体は痛いし疲労感も強い。30分は非常に長く感じられる。これがうまくいって6か月も続けば、体は鍛えられ疲労感も少なくなり、達成感と充実感が残る。体操の一つ一つの動きが身近なものになり、同じ30分が6か月前と比べ短く感じられる。この行為と時間との間に介在する意識が拡大した結果だ。
時間意識について、別の例を挙げてみよう。幼稚園に通っていた頃の一日の長さをぼんやりでもいいから思い出して欲しい。今、あなたが感じている一日の長さと比べて、とても長い筈だ。あなたの時間意識は歳と共に拡大している。

「空間意識や時間意識は変化する」ということが理解できれば、「自我意識と時空間には何らかの相関関係がある」ということが分かってくる。この世の時計や物差しとは違う次元の話だ。このような理解と感覚を磨くことも、自我意識の進化に向かう道である。科学的手法が適用される領域外の話ではあるが、「自分は理科系である」などと言って、視野を狭くする必要はない。
人は、この世で同じものを見ているが、心で見ているものは、それぞれ違っていることを実感しなければならない。例えば、空中回転の得意な若者は、地面を柔らかいものとして感じている。事実、地面はその若者にとって柔らかいものなのだ。体の不自由な老人には、その地面が硬く感じられる。実際、老人にとって地面は硬く、転べば骨折してしまう。

ここで、時間意識の拡大とは異なる時間意識の欠如ついても触れておこう。
自我意識とその思考を支えるものには、覚醒力、ロケーション力(対象にアンテナを向ける力)、集中力(対象に正確にチューニングする力)、持続力などが存在する。残念ながら、いずれの力も、人間の現進化段階では、不完全な状態を呈している。このため、或る行為に夢中になると、これらの力のエネルギーが途切れてしまい、自我意識が、心の顕在領域から、瞬間的に、場合によっては長い間、抜け出てしまう。いわゆる、我を忘れた状態に陥る。この間の時間経過は意識的には無であるから、アッと言う間に時間は過ぎていく。しかし、この心理的現象は、時間意識の拡大とは無関係である。
別の例も挙げてみよう。全身麻酔だ。この状態では意識にとっての時間経過は完全に無であるから、時間が飛ぶ。これらは、時間意識の欠如によるものである。

次に、人間にとって、自我意識の完全なる集中と持続が、いかに難しいものかを理解しよう。この理解も自我意識の進化に向けての訓練である。
例えば、よく知っている歌を歌いながら、同時に紙と鉛筆で計算をする。歌は知っているので、そこにはかすかな意識を当てるだけで、意識の大部分を計算に向けることができる。しかし、簡単な計算はよいが、難しい思考が必要になると、歌が止まるか、計算が止まる。「二つの異なるものに、同時に、意識を分散して、集中することの難しさ」に気付く。
別の例を挙げよう。禅の修行である。何も考えない状態を10分間続けてみる。だが、雑念の侵入を防ぐことは至難である。自我意識による制御も空しく、心は夢遊病者の如くさまよい始める。ロケーション力が弱まり、連想力が自動的に動き始める。次から次へと、様々な想いが心に湧き上がる。「ハッと我に返り、こんな筈ではなかった」と反省する。集中力と持続力が不足して、自我意識が何度も心の顕在領域から抜け出しているのだ。
心に大きな白い文字で「1」という数字のイメージを思い浮かべる。持続的にはっきりと思い浮かべることができるだろうか。できなければ訓練する。算盤の名手は、誰でも、数桁の算盤のイメージを、持続的にはっきりと心に想い浮かべることができる。これができるようになったら、更に、そのイメージを、心の中に10分間保持するよう努める。自我意識が簡単に顕在領域から抜け出さないよう集中力と持続力を強化し覚醒エネルギーの取り込みを増大させるための訓練だ。
だが、いくら訓練しても、普通の人間には、「1」から「100」までの数字を、同時にはっきりと思い浮かべることはできないことにも気付く。

人間は自分が思っているほど、心の顕在領域に、覚醒した自我意識を持続させることができない。長時間にわたる持続の難しさに加え、夢中になって行動している時に、又、同じ動作を繰り返す内に、自我意識が抜け出ることもあるのだ。更に、睡眠中は勿論のこと、うつらうつらの状態でも自我意識が抜け出る。前述の通り、意識の集中範囲や分散にも限界がある。

睡眠についても触れておこう。
完全睡眠の状態では、顕在領域に自我意識は存在しない。夢を見ている時の顕在領域では、半覚醒状態の自我意識が不連続的に存在している。この間、自我意識はどこに行っているのか。前者では、自我意識は、あの世の原型に戻っている。生きている普通の人間の自我意識は、肉体から完全に分離してしまうと、物理脳に接続した形で心に顕在領域を作り出すことができない。後者の場合、自我意識は、覚醒度の低い状態で、あの世の原型と肉体の間を、ふらふら行き来している。この状態は、訓練によっては、或る程度、意識的に、制御することが可能である。明晰夢などと呼ばれるものでは、自我意識がかなり覚醒している。
心は、自我意識を含めて、睡眠中、あの世の原型で二つのことをしている。一つ目は、覚醒時に消費された非物質エネルギー、即ち、覚醒エネルギーを初めとする生命エネルギーを、あの世から充填している。二つ目は、この世由来の「経験記憶」(あの世の個別領域に蓄積される)を、あの世の原型に馴染むよう熟成している。理解を進めるため、以下の例を挙げておきたい。
・新しい断片的な知識や経験を、感情面も含めて、既に蓄積されている過去のものと関連付けて体系化し、個的な原型変化を引き起こすよう熟成させる。
・狭小な自我意識に起因する苦しみの経験を、感情面も含めて、既に蓄積されている過去のものと関連付けて昇華し、自我意識の拡大に向かうよう個的な原型変化を促す。
又、睡眠時には、この世の活動で壊れてしまった部分が肉体にあれば、潜在領域を通じて、自律的に、修復が行われる。まず、あの世の集団的原型をベースにして個的原型に生じた「破損」を修復する。そして、更に、この修復された個的原型が、この世の肉体を修復していくのである。心と肉体の状態によって、完全に修復される場合もあれば不完全な場合もある。完全に修復されない場合、個的原型も、この世の肉体に合わせて、不完全なままとなる。

最後に、「自我意識には、なぜ限界が設けられているのか」についても考えてみたい。
人間が認識する対象は、その周辺が微妙にぼやけている。認識対象とその周辺との関係が明瞭であればあるほど、自我意識の覚醒度は高いということになるのだが、現進化段階の人間では、極端に覚醒した場合、感情的に、それに耐えることができない。覚醒度は単純に高ければよいという訳にはいかないのだ。
例えば、覚醒が進めば、自己の肉体の死を実感できる。自己の死を常に実感しながら、生きていけるだろうか。例えば、地球上では、現在、多くの戦争が行われている。罪のない子供たちが巻き添えになって死んでいく。これを実感しながら生活できるだろうか。
覚醒が或る限界を越えて進むと、それに対応する感情面での進化が伴わなければ生きていけない。多種多様で膨大な情報・刺激・ストレスで、感情爆発を起こしてしまうからだ。だから、人間の認識は、その対象の周辺が微妙にぼやけている。自動安全制御システムが装備されているのだ。
又、通常人では、自我意識と物理脳との接触を何らかの刺激で遮断すると、心の顕在領域は機能停止となり、意識不明の状態に陥る。これも、この世の激しい刺激を前提にして、自我意識に対する自動安全制御システムが働いていることを意味している。耐えることのできないものをシャット・アウトして、自我意識の崩壊を防いでいるのである。

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