おいてけぼり、ほったらかし

さて、皆さんは恨めしや~のほうで「置いてけ堀」という話を知っていますよね。

堀の中には魚がいますが、世の中には人がいます。釣り上げられた魚の行き先には、何があるのでしょうか。売り物にならず、直ぐに、堀に返された魚には、元の自由な生活が待っています。一方、今の世の中では、売り物になる魚でも、話題になった後で、「ほったらかし(河岸)」という過酷な運命が待っていることもあるのです。釣り上げられて河岸に出されたら、元の堀には戻れません。

「置いてけ堀」に残された魚と、釣り上げられて有名になった(河岸に出された)魚とでは、どちらが幸せなのでしょうか。

若者が政治をする

若者が政治をする方が良い。「若者を中心とする政党が政権を担って政治を行う」という意味だ。但し、若者は、経験不足で視野が狭い。単純論理に走り易い。目先の善悪や正誤にこだわって争う感情も強い。だから、それを補うために、老人の経験や知恵とのコラボレーションが大前提となる。善良で良識のある老人は、死を意識して社会に良いものを残そうとする。歳を取って、更に、欲張る者もいるが、その数は少ない。

多くのしがらみを社会で作ってしまった働き盛りの大人たちが、政権を握っていては、人間的或いは組織的な癒着から生じる歪みをどうやっても払拭できない。明治以来の体質が、今も尚、その底を流れる日本の官僚体制の改革は、極めて難しい。社会との様々なしがらみを持つ大人たちでは、この現実社会の行政実務を牛耳る官僚たちに真っ向から対抗することはできない。又、お金や票に直結する大組織とのしがらみを持つ大人たちでは、利益誘導型政治から抜け出すこともできない。働き盛りの大人たちには、働くことに集中して貰おう。

未来の政府は、偉そうに一般民衆を統治するものではなく、一般民衆が構成する社会の調整機構として、即ち、公僕として、機能するものである。若者よ!老人から、その経験と知恵を借りて、君たちの「これからの社会」は、君たちが自分たちで作れ。大人にお願いばかりしても、また、不平不満を漏らしても、無駄だ。若い君たちの方が、社会とのしがらみが少ない分、公正・公平な社会を作ることができるのだ。

これからの住宅について思うこと №2

都会では高気密高断熱住宅にしないと快適には生活が出来ないかもしれませんが、田舎暮らしでは息が詰まります。
昔の生活には戻れませんし、今とは周りの環境も違い仕方がないところもありますが、私なりに少し昔の住まいについて思うところを書いてみます。

茅葺きの家は屋根の勾配が早く屋根下地に竹を縛り、その竹に荒縄で茅を何重にも編むように縛って、雨が漏らないようにしてありました。
屋根の下では囲炉裏があり、薪を燃やしても煙は茅の間から外に出るようになっていました。
その茅葺きの屋根が温度や湿度を調節し、エアコンなどない時代に調温調湿の役割をしていました。
居室の前には必ず縁側(濡れ縁)が有り夏の暑さよけ・冬の暖房のクッションの役目をしていました。

私が子供のころはエアコンなどはなく、暑い夏の夜は窓は全開にし、部屋には蚊帳を張りその中で寝ていました。
夕方になると打ち水をし窓には風鈴などをぶら下げ色々な工夫をしていました。
私が思うにエアコン等の空調機械が普及するまでの日本の住宅は、いかに日本の夏(高温多湿)を快適に過ごせるかの工夫がありました。
逆に冬の寒さの対策はあまりなかったように思います。
ただ暖房は薪を燃やしたりしてある程度は改善できたのだと思います。
次回はこれから私の目指す楽しく、快適に生活出来るような家(風と光と木の家)について書いてみます。

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今月の目標(小学校低学年のクラスにて)

或るクラスのお話です。

今月の目標という張り紙には、”はなしをしない”と書かれています。
先生: みんな、今月の目標は良く守れましたね。来月の目標は、今月の目標に丸を一つ加えるだけです。さて、今度の目標は何でしょうか? 明日までに考えてきてください。整理整頓の話です。

さて、これを読んだ皆さんは、どんな言葉が浮かんできましたか?

好きなことをして生きられたら・・・

好きなことをして生きられたら素晴らしい人生だ。
だから、仕事でも、趣味でも、そう、努力するのは、とても良いことだ。
けれど、何が好きなのかは、やってみなければ分からないこともある。
誰を好きになるのかは、付き合ってみなければ分からないこともある。
初めからの食わず嫌いは、人生をつまらなくする。
そして、好きなことをして素晴らしい人生を送るのには、一つだけ条件がある。
それは、自分が好きですることを周りの人達も喜んでいるということだ。

これからの住宅について思うこと №1

最近住宅関連の用語で良く聞く言葉ですが、ZEH(ゼッチ)とはゼロ・エネルギー・ハウスの略で外皮の断熱性能等を向上させ、高効率な設備システムを導入して年間の一次エネルギー消費量のゼロにする事を目指した住宅のことです。

簡単に言うと家全体の断熱性を上げ、窓等は高断熱窓、照明・空調・給湯器は高効率にし屋根には太陽光発電、それをHEMS(ヘムス)(ホームエネルギーマネージメントシステム)家庭で使うエネルギーをモニター等で監視するシステムで、政府は2030年までに全ての住まいに設置する事を目指しています。

これから国が目指す住宅は高気密高断熱で、機械で空調等の管理をした住宅を作る。限りある資源を守るのも必要ですが、田舎暮らしでは息が詰まります・・・。

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新しく優れたものは・・・

新しく優れたものは、それが世に出た時、社会から理解されることは極めて少ない。
もし、直ぐに高い評価を受けるならば、そう評価する人達が、既に、多数、社会に存在することになり、「それは新しいものではない」ということになる。

既成の知識層やマス・メディアが、理解しようとしない、注目することのないところで、 日々、地道に、努力を積み重ねている「名も無き人々」の土台作りによって、真の社会進歩は支えられているのだ。

幸せ見つけた!002

今の東京は、こんなに人がいるのに、孤独で寂しい。
みんな焼けてしまった戦後、バラックの中で、汚れた子供たちがごろ寝していた。
家の子供も近所の子供も、分け隔てなく、大人は接していた。
貧しくても、寂しくはない。
共に生きる仲間がいるからだ。
あの頃は、家族の定義が、もっと広く、おおらかだったように思う。

幸せ見つけた!001

樹木のある交差点で、孫娘を自転車に乗せたおばあさんが信号待ちをしている。
夕食のための買い物に行くのだろう。
おばあさんと孫娘は、何することなく、ただ楽しそうに、顔を見合わせ笑っている。
秋の夕陽がまだ明るい街角、黄金色の光の中に、小さな幸せを発見した。

モッタイナイ(一握りのお米)

今日、食べるお米がなくなり、買いに走った。玄米が食べたくて、新米(ちょうど新米の時期)を探した。うまく見つかり、その店にある精米機に向かった。白米は、食味は良いが栄養価は低い。玄米はその逆である。その「良いとこ取り」をしようと、三分搗きの精米を考えたのだ。

5キロの精米が終わり、袋に入れて機械周りの清掃をしたところ、前の人達の分も含めて、床に落ちたお米が手のひら一杯程集まった。それを見て、ふと思った。

モッタイナイ!今日は9月15日です。8月15日(終戦記念日)から1か月です。昭和20年のこの日に、これだけのお米が掃き捨てられるのを見たら、当時の人たちはどう思ったでしょう?

風が吹けば桶屋が儲かる 001

「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺がある。
これを、「因果の車は人知の及ばぬ領域でも廻っている」と読む。

これに絡めて、昨今、気になることがある。社会に不幸な人が続出するのではないかという心配だ。それは、マス・メディアやSNSの吹かす風である。妬み半分の正義を振り回して、寄って集って、特定の個人を非難中傷する現象である。個人に対する非難中傷は程々にして、「どうすれば、そのような不祥事をなくす社会的な仕組みが出来上がるのか」に焦点を絞る方が良い。視聴率は上がらないかも知れないが、そこに、本来のマス・メディアやSNSの存在意義があるのだ。

そればかりではない。このような風に乗って他人を非難中傷する人々には、やがて、作用反作用の法則を積んだ因果の車が廻って来る。幸せな人生を送るための第一歩は、他人を不幸にしないことなのである。

大きな根を持つ植物

今、この野原に、赤、白、黄色の花を咲かせる植物が繁茂している。

この植物には、光を好むもの、日陰を好むもの、乾燥を好むもの、湿気を好むものがある。日照りの時には、光を好むものと乾燥を好むものが活躍し、雨続きの時には、日陰を好むものと湿気を好むものが活躍する。こうして、頑張って、今日の繁茂を達成したのだ。だから、好みはみんな違ってよい。

また、三色の花は仲良く一緒に咲き誇り、そよ風に揺れている。自分と色が違うからといって、他の色の花を嫌ったりすることは決してないのだ。

この植物は、地面の下にある大きな一つの根に、自分達すべてが繋がっていることを知っている。

好きになれないもの、なれるもの

個人的な感想です。
「人それぞれ」は大切です。
だから、「皆同じ」も認めます。

でも、有名人がやっている、皆がやっている、
それで、関心を持って外見を真似る、・・・好きにはなれません。
何か、ハーメルンの笛吹き男にそそのかされた集団自滅の匂いがします。

人の思惑など気にせずに、
その内容に触れると、ワクワクする、意味が分かる、
それで、探求する、自分に合わせて楽しむ、・・・好きな生き方です。
これなら、生きる意味が実感できます。

マモン

皆さんもご存知の通り、マモンとは、旧約聖書に登場するお金・財・富の神様である。本来、人間は本物の神様のしもべである筈なのだが、その時代、放っておくと、マモンのしもべに成るものが続出した。そこで、神様は警告する。「私とマモンの両方に仕えることはできない」と。

現代を生きる我々に対し、もう一度、この言葉が発せられるかも知れない。そもそも、マモンは、「人間の欲望と仲間への信用」から生まれた、人間(集団全体)に仕えるためのパワーである。お金に着目して簡単に言ってしまえば、「人間は、本来、お金の主人公」ということだ。お金は、人間によって、大いに利用されなければならない。

お金は、人間社会を回り歩くことで、そのパワーを発揮する。日本では、昔、その性質を見抜いて、お金をお足と呼んでいた。お足を使って豊かになることを知っている人達は大商人と呼ばれた。

だが、欲が過ぎて、社会全体を顧みず、自分達だけにお金を留めて置こうとすると、立場は逆転して、「人間がマモンの奴隷になる」という法則がある。お金は、程々に、有効に、使わなければならない。この法則にも目を向けなければならない時代が来ている。

カマキリ

或る日の夕暮れ時、帰宅を急ぎ愛車に乗り込んだ。シートベルトをつかむため、少し右を向く。あれ?窓に大きな緑色の動くものが!! なんとカマキリである。どうしてこんな所にいるんだ?車に乗り込む時に、なぜ気付かなかったのだろう。

人は、見ている積りでも、意外と見ていないものです。「見ようという意識」が働いていない時には、こんなにも無防備なのです。

 

世の中に幾億万の母あれど・・・

 「世の中に幾億万の母あれど、我が母親に、優れる母なし」という歌がある。これをどう読むかで、人間の大きさが異なる。そして、その人間の乗り越えなければならない課題も分かるのである。

 自分の母親だけが特別な存在で、自分の母親だけが世界一だと素朴に読む。それは、それで美しい。だが、その背景に、自分は、特別な存在だという稚拙な思い込みがある。

 「この作者は、普遍的な人間性と一体化した自分を実感して、その上で、改めて、自分の母親を至上のものとして詠っている」と考えたらどうだろうか。普遍的な母親の愛の本質に触れることで、この歌は、逆に、幾億万の人々のエネルギーを伴って、心に迫って来る。幾億万の母親の様々な異なる愛とその愛それぞれを至上のものと感じる幾億万の人々の思いが凝集されて、強烈に、胸に迫って来るではないか!

人類絶滅の日は・・・

 物質面だけで生命を捉えた場合、人類絶滅の日は、必ずやって来る。「そんな先のことを心配するな」と言う人が多いかも知れない。しかし、それは意外と近くにまで迫っている。

 太陽系の3番目の惑星、地球、人類をはじめ数多くの生物が棲む天体、年齢は46億歳。表面は窒素と酸素を主成分とする大気に包まれ、水がある。衛星は一つ、月である。現在、72億の人類が生息する。

 この地球に生命が誕生したのは、今から約38億年前、生命は、現在に至るまで、進化と部分絶滅を繰り返している。大量絶滅と言われる出来事は、過去5回あったとされ、有名なものが、約6千6百万年前の恐竜絶滅である。メキシコのユカタン半島付近に落ちた直径10キロ程の小天体が、1億7千万年の長期にわたって地球を支配していた恐竜を絶滅させた。この時、同時に、地球上の約80%の生命が死滅したと推定される。

 恐ろしいのは、これからの話である。専門研究家がコンピュータに大量のデータを投入して、地球上の生物絶滅速度を計算した。その結果、生物絶滅の最速時期は「現代」と算出されたのである。過去5回の大量絶滅を超して。我々の時間感覚では実感できないものの、地球時間で見れば、これまで地球が経験したことのない速さで、現在、地球上の生物が消滅している。

 もう、皆さんもお分かりの通り、これは、人類の仕業である。利便性の高い、物質的な豊かさを享受する現代文明のもう一つの側面は、地球に過大なダメージを与えるものなのだ。多くの生物が消滅してしまった地球上で、人類だけが生き残れる筈はない。人類の叡智が試される時代に入っている。

理系・文系

 理系・文系という概念は、日本人が発明したのかもしれない。他国の人に比べて、直ぐ口にする。この世界が、理系と文系で、明確に2分されている様な印象を与える。理系事象と文系事象は、実際には、絡み合っていて、明確に分離できない。或る前提条件の範囲内に理系事象を閉じ込めて、初めて、この分離は成立するのである。

 「私は理系だから文系のことは理解できません。」、「私は文系だから理系のことは理解できません。」などと言うのは、決して、建設的な発言ではない。「私は、知的に偏っています。多視点に立つ努力を放棄し、思考範囲を狭めています。」と言っている様に聞こえる。 

 理系・文系を超えた分厚い教養基盤の上にこそ、理系であれ、文系であれ、美しい専門の花が咲くのである。

肩叩き

子供の頃、言葉少ないお祖父さんに、お小遣いをねだると、
いつも「肩を叩け」と言われた。
肩を叩くと、お祖父さんは、嬉しそうに、お小遣いをくれた。
働かなければ、お小遣いは、貰えない。
お祖父さんは、幼い孫に、なにか大切なものを伝えたかったのだろう。
肩を叩きながらお祖父さんの背中に触れた感触を、今でも思い出す。
懐かしいお祖父さん。

誘蛾灯

誘蛾灯の青い光に幻惑されて、今夜も、沢山の虫が飛来する。
虫は、この世には決して存在しない青い光で包まれた理想の世界に憧れて飛来するのだ。
この青い光を感覚器官が捉えると、虫は本能的に青い光で包まれた理想の世界からやって来る感覚に満たされる。
憧れの感情に乗って、溶け込んで一つになるために、飛んで来るのだ。

何故、そんなことが分かる?

私は、子供の頃から、お盆の回り灯籠を見て知っている。
回り灯籠の中からやって来る青い透明な光の中に理想の世界を感じるのだ。
青い透明な世界が、清らかに、爽やかに、安らかに、存在している。
不思議な感覚に満たされる。
憧れの感情に乗って、溶け込んで一つになるために、青い光で包まれた理想の世界に飛び込みたくなる。

個と集団

個人主義は美しい・・・醜い。
家族主義は美しい・・・醜い。
同胞主義は美しい・・・醜い。
会社主義は美しい・・・醜い。
地域主義は美しい・・・醜い。
民族主義は美しい・・・醜い。
国家主義は美しい・・・醜い。
世界主義は美しい・・・醜い。

視点・立場が異なると、価値は逆転する。
バランスが悪いと、醜くなる。

競争と協調

 我々は子供の頃、「一生懸命やって、学業成績を上げろ、運動会で一等賞を取れ」などと言われた。それで、頑張って競争し勝ってみたら、今度は、「協調精神が足りない」などと注意される。人間は、レイモンド・チャンドラーの小説で探偵フィリップ・マーロウが言ったように、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」のかも知れない。

 切磋琢磨し競争しなければ、個人としても社会としても、進歩・向上がない。だから、競争は必要である。しかし、協調がなければ、その進歩や向上は、個的なものにとどまり、社会的な相乗効果が期待できないばかりか、社会的な累積も難しい。さらに、秩序は失われ、競争は激化し、争いが蔓延し、少数の勝者のみが生き残る。結果として社会は衰退する。

 我々は、自分を狙う犯罪者に優しくするのは難しいが、相撲で勝負した相手には、侮蔑ではなく礼を持って接する方が良い。山の柿の実は、自分たちが食べる分だけ取ったなら、後は、鳥のために残す気配りが必要である。

 時代や環境、自分の周囲の状況によって、刻々と微妙に変化する競争と協調の一見矛盾する均衡点を瞬時に適格に探り当てるバランス感覚は、人間にとって極めて重要な能力である。これは、学校の授業で教えてくれるものではない。先天的な差異はあるが、子供の頃に自然の中で遊び、友達や兄弟と小競り合いをして、無意識の内に身に付けるものである。

 歳を取って振り返ると、次のようなことも言える。子供の頃や若い頃は、視野狭小で、勝つために、がむしゃらに競争した。結果として、強さと能力に磨きは掛かるが、それと共に、相手の気持ちも分かるようになる。自分の痛みは相手にもある。歳を取るに連れ、自我意識は拡大し、協調の精神が自発的に生まれて来る。

文字の伝える力・伝わらない怖さ

あなたはこんな話を聞いたことがありますか。

或る時、同級生のA子さんとB子さんが映画の話で盛り上がり、映画を一緒に見に行くことになりました。その話を聞いた友達のC子さんが「私も一緒に行きたい」とA子さんに言い出したので、A子はそれをB子さんに伝え、B子さんの了解を取り付けました。

映画の前日にB子さんはC子さんにメールを送りました。
「あんた、なんで来るの?」と短い文でした。

なんと、このメールがB子さんへの深刻ないじめの引き金となってしまったのです。

B子さんは、単に、「あんたは自転車で来るの?」と聞きたかっただけなのに!

長幼の序

 お祖父さん・お父さん・お兄さん・僕の順序、お祖母さん・お母さん・お姉さん・私の順序は、人間がまだ猿だった頃から、とても大切なものだった。隣の小父さんも、学校の先輩も、年少の僕にとっては、目上の人だ。昔の人は、人が社会で幸せに暮らすための知恵として、この感情・感覚から生まれる秩序を「長幼の序」と言って、大切にしてきたのである。

 誤解を避けるために付け加えると、民主主義の世の中では、「長幼の序」は、人間の価値順位に繋がるものでもなければ、命令を下すための権利順位に繋がるものでもない。この意味では、当然のことながら、年長者、年少者、共に、皆、平等である。だが、「年少者が年長者に敬意を払うことを知らない社会が平等な社会だ」と考えるのは大きな間違いである。

 「長幼の序」が示す意味・価値(或る種の感情・感覚が支える)を文化として共有すれば、社会は、この領域に於いて、混沌から秩序に向かうことができる。この点が重要なのだ。親と子が友達の関係にあれば、社会は混乱する。親が子を、子として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないし、子が親を、親として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないのである。

 平等ということを考える上で、「差別」と「区別」は異なったものである。所謂、「差別」が不平等を生む源泉であると定義すれば、「区別」は平等な社会にも必要なものとして定義できる。男女の区別、役割の区別などを考えれば、直ぐに分かる。男性が子供を産めないから不平等だという人はいないし、学校の先生が生徒を教育するのは不平等だという人もいない。

 「長幼」には、自然が人間に与える役割の区別がある。

野生のニワトリ・鶏舎のニワトリ

 野生のニワトリは、自分の力で餌を取らなければ生きていけない。うっかりしていると、他の動物の餌食になってしまう。雛にとっては、特に、その危険性は高い。卵は蛇が狙いに来る。いつも、気を使い、体を使って生きている。生きるのは本当に大変だ。だから、高い木の枝に舞い上がったり、少しの距離なら飛ぶこともできるのだ。

 一方、鶏舎のニワトリは、自分の力で餌を取りに行く必要はない。毎日、決まった時間が来ると、餌と水が与えられるから、あまり、気は使わないし、体も使わない。天敵の襲撃を恐れることもない。便利で安全、物質的に恵まれている。ただ、ずらっと並んだお仕着せのケースに入って生活しなければならない。そして、労働の成果として産む玉子は、人間に提供することになるのだ。年老いて玉子を提供できなくなったメンドリは、価値の無いものと見做され、処分される。

 現代の文化文明を顧みて、皆さんがニワトリだったら、どちらの生活を選ぶのだろうか。

集中の危険

 ここに、大きなクヌギの木がある。樹液が大量に噴き出て、味も香りも申し分ない。林のカブトムシたちの間で、噂はたちまち広まった。或る夏の夜に、カブトムシたちは、雄雌一ペアーを除いて、その木に一斉に集合した。だが、運の悪いことに、集まったカブトムシたちは、その時、丁度、待ち構えていた子供たちに一網打尽に捕獲されてしまったのだ。残ったペアーは言った。「だから、言ったのに」。もう、遅かった。集中の危険である。

 都市に過密状態で住むこと、満員電車に乗ること、渋滞の道路で運転すること、混雑する人気の娯楽施設や商業施設に行くこと、などを象徴している。有名で味も香りも良い樹液に、一斉に集まる人たちへの警告である。
 現代人の集中する悪癖は、大袈裟ではなく、このままでは、いずれ集団を破滅へと導く。

 人の生きる意義は、人真似をして生きることではないし、人が欲しいと言うものを欲しがって生きることでもない。人々の個性や事情は、皆、それぞれ違っている。生まれも、育ちも、違う。これからも違った人生を歩むに違いない。受けた情報は、自分自身で考え、自分自身で判断し、自分自身に合わせて処理しなければならない。そうすることで、初めて、自由意志の行使が可能になり、生きている意義が生まれるのである。

科学と倫理の大前提

 科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)、そして、倫理感情を支える絶対感・真理感は、共に、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にある。
  しかし、それでも、科学や数学は、そのような前提の上に、客観的で確固たる体系を築くことができた。これをベースにした様々な技術の累積は、今や、物質宇宙に大きな影響を与える水準にまで達している。一方、倫理と言えば、3000年前のギリシャと比べて、殆ど進化していない。このギャップが、現代の文化文明を危険な道へと導いているのである。

 この危険な道から脱却するためには、人間の心に湧き上がる倫理感情に更なる力を与え得る新しい哲学が必要となる。その昔に作られた宗教や哲学は、多くの点で、科学や数学の客観的で確固たる体系の力によって修正されなければ、現代に通用しないのだ。
 宗教に潜む独善主義(例えば、教祖への盲信や原典主義)は、明らかに、時代遅れである。古くからある哲学の諸説も、科学的・論理的な矛盾があれば修正しなければならない。また、人間の能力では客観的な証明のできない、科学の対象範囲を超えた前提は、仮説として謙虚に提示されなければならない。

 一方、科学や数学も謙虚でなければならないのである。なぜなら、前述の通り、科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)は、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にあるからだ。宇宙の全てが、科学や数学的手法で解明されることはない。人間の能力を超えた領域を土台にして科学や数学が成り立っていることを忘れてしまっては、便利で物質的に豊かな現代文明も永続きはしないのである。

循環するグー・チョキ・パア

 昔から人間社会を動かす三つの大きな力についての話がある。一つ目は知力である。理性、論理、知識などを駆使し、分析、統合、整理して物事を考え、理解し、判断する力である。象徴的に学者と言う。二番目は軍事力、象徴的に軍人と言う。三番目はお金、象徴的に商人と言う。学者はグー、軍人はチョキ、商人はパアに例えられる。即ち、優劣はジャンケン通りということだ。

 事実、学者は商人に弱く(お金がなければ研究ができない)、軍人に強い(戦の大義を論理付け、また戦略を立てる)。軍人は学者に弱く、商人に強い(商売のベースである平和や秩序を破壊し、金品を奪い取る)。商人は軍人に弱く、学者に強い。そして、人間社会は、その優劣通りに循環するという。

 現在は、お金が一番のパアの時代であり、チョキの時代に向かいつつある。チョキの時代になって既存の秩序と富は破壊され、人々は壮絶な苦しみと悲しみを味わう。やがて、グーが台頭し、社会秩序と平和の再構築が始まる。グーの時代になると、パアが力を発揮して貧富の差が拡大する。パアによる不平等な平和社会が構築されて、一般民衆は、お金に支配され、自然を破壊し、職業家畜となっていく。社会に不満が充満し、内戦やテロが勃発する。チョキがこれら全てを破壊する。このような循環論であるが、確かに説得力がある。

 だが、これが、永遠に循環する訳ではない。「循環を保つバランスはいつか崩れ、次のバランスに向かう」というのが因果の法則である。

 チョキの時代には、そのバランスが大きく崩れ、水爆によって人類は絶滅するかも知れない。パアの時代には、自然破壊が度を越して、想像を超える大きな天変地異がやって来るかも知れない。進化して、新しい循環に移らなければならない。

オオクワガタ生態観察会

2017年7月26日(水)、南房総市・富山地域づくり協議会「フラット」との共催で、森のてーぶる・オオクワガタ生態観察会が開催されました。

毎年、この時期に開かれる地域恒例のイベントです。
今にも雨の降りそうな天候のせいか、例年に比べて参加者の数は少なめですが、大人と子供を合わせて、約60人が集合しました。

80ミリを超える日本オオクワガタ、台湾シェンクリング、インドアンタエウスなどの生態観察が行われ、その後、参加した子供たち全員に、オオクワガタ、ヒラタクワガタ、コクワガタ、カブトムシ、コガネムシが、くじ引きやじゃんけんで、プレゼントされました。

子供たちのはじける笑顔に触れて、地域の明るい未来を感じました。

 

愛してもその悪を知り・・・

愛してもその悪を知り、憎みてもその善を知る。

愛憎、好き嫌い、広い意味では、嫉妬、妬み、僻み等から、物事の善悪を判断すべきではないということである。

近頃、マス・メディア、インターネットに限らず、よく見られるものは、このような感情が正義を装って為される他者批判である。「悪いものは悪いとはっきり言うべき」だが、人を批判する時には、このことに注意しなければならない。

作用・反作用の物理法則は、心の世界を含めた因果の法則から生まれたものである。言い方を換えれば、心の世界にも作用・反作用の法則が働いているということだ。あなたが幸せを求めるのならば、この法則に気付かなければならない。

 

二種類の噓

 「事実と異なることを、故意に人に話すこと」を嘘と定義するなら、嘘には二つの種類がある。一つは、人をおとしめて自己の利益を図るためのもので、悪い嘘である。もう一つは、人を喜ばせ元気にするためのもので、良い嘘である。

 良い嘘は、世の中では嘘と言わないかも知れないが、これらは人間社会を豊かにする大切なものである。逆の言い方をすれば、「何でも、真実を告げれば良い」という考えでは、人間社会は成り立たないということだ。挨拶で、「お元気ですね」という代わりに、真実を尊重して、「老けましたね」などと言う人は、どこか狂っている。人間は、無意識に、心が、感情が、合理性や論理性に優先して生きている。思い遣りが、故意に、事実の表現を歪めることもある。しかし、これは、倫理性に劣るわけでもなく、論理性に欠けるわけでもない。

 物質万能主義や合理主義に慣らされると、この辺りの微妙なバランスが分からなくなって来る。インターネット上の悪意情報は、嘘も真実も含めて問題外としよう。今、問題とするのは、善意と公共性を前提とするマス・メディアに、この点での勘違い(分かっていて遣っている?)が多く見られることだ。支配層による「言論の自由圧迫」は許されるものではない。だが、マス・メディアは、倫理的側面を考慮して、自発的な報道の抑制が常に必要なのである。例えば、それが事実であれば、報道された者やその親族の悲しみを無視して、ニュースに取り上げて良いものだろうか。そのニュースが、ミーハーたちの単なる興味を掻き立てるだけのものであれば、尚更だ。それが視聴率を上げる目的であれば最悪だ。例えば、犯罪ニュースにしても、その表現は慎重に為されなければならない。社会に対する一種の警報の積もりでも、本音が興味本位の報道であれば、犯罪の模倣を招く伝染媒体となるだけである。

人間と人工知能

 人工知能が人間の精神活動を凌駕する時点というような意味でシンギュラリティーという言葉が独り歩きしている。計算力や記憶力というように限定した意味では、とうの昔に人工知能は人間を越している。これが、その範囲や深さを拡げ、人間による新たなプログラムの追加投入なしに、組み込まれたプログラムが自動的に次々と新しいプログラムを生み出し、データ収集も進み、やがて、こうして累積されたものが人間の全精神活動を網羅し、且つ、凌駕するという意味であろうか。

 これを本気で言っているのであれば、人工知能はどのような仕組みで出来ているのかという原理を理解していないのか、または、人間の心・精神活動とは何かという、大昔から多くの哲学者たちが考えに考え抜いて未だ明確な答えを出すことのできない難問を忘れているからだ。

 人工知能は、全て、人間が投入するプログラム(命令)によって作動する。従って、人工知能が行う意思決定は、このプログラム(命令)に直接的に沿ったものか、これら(複数のプログラムの絡みも含めて)から引き出される論理的帰結に限定される。言い換えれば、「人工知能に自由意志はない」ということが明確に言い得るのだ。

 自由意志とは、因果の結果ではない新しい原因を自分自身で作り出す意志の力である。自由意志は、自然宇宙の因果の流れの中で複雑に連鎖し関連し合って存在する諸要素の下、過去の因果から独立した新しい原因をそこに投下する。そして、それがその時点での無数の周辺要素と絡み合って、大きな因果の流れに合流して行く。例えば、「今、持っている鉛筆を左に倒すか右に倒すか」という意志→決定→行動の実験を思い浮かべてみよう。あなたは自分の意志で自由に、左にも、右にも、鉛筆を倒すことができる。結果として左に倒した時に、「左に倒そうと働いた意志そのものが過去の原因の結果だ」と言う人もいるが、「通常の環境下では、右に倒すこともできた筈」と考える方が妥当である。自分自身の意志が初めての原因となって左に倒したと考えられる。この力が自由意志である。

 公平を期すため、「左に倒しても、右に倒しても、全ては過去の原因の結果だ」とする、いわゆる決定論についても言及しておこう。これによれば、自然宇宙は、創造神、または、偶然によって、原初に生み出されたものが原因となって、どこまでも、きっちり決定されたプログラム(法則とその力)に沿って変化し、進行することになる。即ち、「自由意志は存在しない、全ては原初から決定されている」という説である。この説が正しいとする場合にのみ、人工知能が人間の全精神活動を凌駕することはあり得る。なぜなら、全てきっちりプログラムに従って活動する人間の精神(この場合の人間は、自然のアンドロイド)は、人工知能と本質的に何の違いもないからである。

 一方、人間の精神活動に自由意志が存在するとすれば、人工知能が人間の全精神活動を凌駕することは不可能である。なぜなら、人工知能は、いつでも、人間が投入するプログラム(命令)に沿って働く仕組みであり、これから引き出される論理的帰結を離れて、人工知能が自らの自由意志で新たな意思決定をする力は、前述の通り、存在しない。即ち、人間は自由意志を駆使できるが、人工知能はこれができない。従って、少なくとも、この点においては、人工知能が人間を凌駕することは永遠にあり得ないのである。

 ここで、決定論の問題点を挙げてみよう。この説は大変無責任な状況を生み出すのだ。倫理感情も論理も、全てが人間にとって意味をなくす。全ては決まった通りに変化し、進んでいるだけだから。戦争をするのも、暴虐非道の限りを尽くすのも、初めから決まっているのだから、何をしても人間に責任はなくなる。この説は正誤を問う前に、人間の存在意義を否定するものとなる。

 一方、自由意志の存在を肯定した場合、人間(正確には、自由意志を持つ全てのもの)は、自然宇宙の進化に責任を持つことになる。大部分が既に出来上っているようにも見える自然宇宙の中にあって、それでも、自由意志を駆使して自然宇宙の創造に尽力する存在、それが、人間というものである。ここに、アンドロイドではない人間の真の自由がある。そして、筆者は、自由意志の存在を信じている。ここに、自然宇宙の根源である普遍的な意志性・創造性・生命性が宿っているのだ。

 人工知能脅威論については、別の視点から説明したい。例えば、或る人間が、或る基準をベースにして人間の知能指数を測定するプログラムを人工知能に投入したとしよう。さらに、「知能指数50以下の人間を殺傷せよ」というプログラムも追加する。この場合、その人工知能の手足となるロボットは、自由意志による判断も感情もなく、そのように、人間を殺傷する。

 だが、これは人工知能による脅威ではない。人間の問題である。従って、脅威となるものは、未来社会に於いても、人工知能ではなく、人間の心の中に存在するのである。

 別の言い方をすれば、人工知能は、人間の使い方次第で、良くも働き、悪くも働くものなのだ。限定された分野に於いては、人間の能力を遥かに凌駕する優れものであることは、もう誰にでも分かっている。現時点に於いて、既に、そのように働き、人工知能なしでは切り開くことのできなかった新領域へ人類を導いている。即ち、より良い未来社会形成のために、人工知能の活躍は必要不可欠なのである。だが、繰り返しになるが、これは、人間による意思決定、それを反映したプログラミングがまず初めにあることを理解しなくてはならない。

チームワークの成果

 外部環境からの影響を除外すれば、チームワークの成果は、チーム全体の力によって決まる。チーム全体の力は、チーム構成員一人ひとりの力の合成であるが、その合成に関わる構成員一人ひとりの相互関係性によって影響を受ける。

 全体を良くするためには、当然、一人ひとりが自己を磨かなければならない。だが、構成員である或る個人が力を付けることで、構成員である他者の力を歪めるような関係があれば、単純に、個々人が己の力を付ければ、全体が良くなるというものではない。全体として最大の出力を生み出す構成員一人ひとりの相互関係性が重要である。分かり易い言葉で表現すれば、そこに、調和や協調がなければならない。

  個人は、国家にも置き換えられる。世界が最大の出力を生み出すためには、それぞれの国家が、単純に、力を付ければ良いというものではない。そこに、バランスの取れた調和や協調がなければならないということである。

人は見たいものしか・・・

人は見たいものしか見えない。

人は聞きたいものしか聞こえない。

略、無意識の状態で、人は、自分の現実世界をこのように限定して、小さくしていく。

人類進化のためには、このことに気付く個人が、率先して、この無意識状態に意識の光を当てて、まだ知らぬ多様性の海に船出しなければならない。

中真似と外真似、本物と偽物

 人は、誰でも、人真似をして育つ。そして、人真似には二種類ある。一つ目は、人の持っている何かに共感し、それを真似るものである。この場合は、中身に価値を見つけ出して、それを真似ているのである。これを中真似と呼ぼう。二つ目は、世の中で流行っているもの、有名人がやっているもの、その外形を真似るものである。中身そのものはどうでもよい。皆がやっているから、ただ、それを真似したいのである。これを外真似と呼ぼう。同じ人真似でも、この二つは根本的に違う。

 外から見てこの両者は、区別が付き難い。例えば、サッカーをやりたい少年がいる。この少年は、本当にサッカーが好きなのか、仲間が、皆、サッカーをやっているからやりたいのか、この区別は簡単には付かない。そもそも、半々ということもある。やりたい本人も分からないことが多い。

 外真似も馬鹿にしてはならない。やっている内に、本当に、中身に価値を見つけ出す者もいるからである。「石の上にも三年」、自意識過剰になって、自分探しをする若者には、これを勧める。

 一つ目、即ち、中真似は本物を作る。二つ目、即ち、外真似は偽物を作る。この意味で、嫌がるものを押し付ければ、偽物になるだけだ。世の中には、偽物の人間が圧倒的に多い。親や教育者、そして、社会環境に責任がある。子供を本物にしたい親は、この二種類の人真似について理解を深めて欲しい。世の中に本物が増えれば、世の中は進化し、世の中はさらに面白くなる。

GAIAGAIA

仕事と労働

 ここでは、「仕事は、好きで、天職と思って、自発的な形で働くこと」、「労働は、経済的理由、義務や強制などによって、自発的ではない形で働くこと」と定義しよう。この両者を混同させてはならない。社会的な外見から見れば同じように見えても、人の心にとっては根本的に違うものなのだから。但し、続けているうちに、自分にとっての意味と価値をその内に見出して、労働が仕事に変わることもよくある。そもそも、心の中で、初めから、仕事と労働が半々ということもある。

 現代に於いて、一番問題になるのは、お金のために嫌な労働をしているのだが、本人がそのことを自覚していない場合である。労働の中身そのものは、それほど嫌ではないが、その周囲の環境が慢性的なストレスを与える場合(過密居住、満員電車通勤、慢性騒音、空気汚染など)は、意識することがとても難しい。また、賃金の高さ、楽さ加減、勤め先の知名度などを基準に、自分に合わない、欝病を誘発するような労働に従事する人間も増えている。

 ここで、世間一般で言う労働法というものを考えてみよう。すると、ここで定義した労働という視点に立った考えだけが見えて来る。そこには、仕事という視点はない。仕事も労働と見做してこの法律は出来上がっているのだ。だが、人間が行う経済的活動には、明らかに、仕事と労働が含まれていて、それを同じに取り扱えば、社会的な矛盾が生じるのは必然である。その区別は微妙で難しいが、この区別をしっかり考えた上での労働法でなければ、目的である労働者保護は、却って、仕事をする人々、労働をする人々を困らせるものとなる。

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言葉には限界がある

 色々な角度・視点から何回も繰り返して物事を見ないと、正しい判断はできない。周囲の環境との絡みをできるだけ多く把握しないと、物事の判断を誤る。しかも、周囲の環境は刻々と変化する。だから、一つの固定した視点からの物言いは、別の視点から見た時、おかしなものになることが多いのである。
例えば、「本当のことを言わないのは悪いことだ」という言い方がある。或る特定の前提に於いて、それは正しい。別の前提に於いて、それは誤りである。窃盗犯が本当のことを言わないのは悪いことだが、知り合いの老人に、挨拶で、「随分老けましたね」などと本当のことを言うのは良くないことだ。

 ギリシャの哲学者、ゼノンのものとされる有名な話に「アキレスと亀」がある。「俊足のアキレスは鈍足の亀に無限に近づきはするが決して追いつくことはできない」という話である。
・・・アキレスが亀を追いかけ、亀のいた地点に到着すると、亀はそれなりにその地点より先に進んでいる。次に、アキレスは、亀が進んだその地点に向かうが、アキレスがその地点に到着した時、亀はそれなりにまた先に進んでいる。このような繰り返しが永遠に続くだけで、アキレスは決して亀に追い着くことはできない。・・・
だが、この話は、アキレスが亀に追いつく寸前までの時間と距離を次々と無限に細分割する前提になっているのだ。

 前提条件によっては、「1+1=2」も、おかしなものになる。砂利一杯のバケツと砂一杯のバケツを合わせると、バケツ二杯にはならない。

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自由意志と自発性、意志と想像力

 具現化される決断や行為のベースに、過去の事象が直接の原因となって生じる結果ではない、即ち、因果の流れから独立している力、自由意志というものがあれば、「これらは真の意味で自発性がある」ということになる。自由意志とは、原初から存在する自然宇宙の意志性・創造性・生命性に由来しているもので、創造主の力の一部と考えてよい。
一方、決断や行為の内容・具現化のプロセスは、当然のことながら、過去の事象に影響されている。いくらオリジナリティーの高い発明でも、既に存在しているものを組み合わせたり、利用したりしているのだ。また、通常は、先人たちの開発した言語、数学、科学知識などのお世話にもなっている。

 自由意志・自発性があるかどうかという問題は、飽くまでも、個々人の行使する意思決定の力が、どこから来たものかという話なのだ。例えば、強制された行為のベースに、自由意志も自発性もないのは当然であり、議論の余地はない。では、食欲や性欲など本能的なものが、主たる意思決定の動機であった場合、そこには、どの程度、自由意志や自発性があるのだろうか。難しいテーマになって来る。
そもそも、自由意志など存在しないとする決定論という説もある。原初からの原因と法則に従って、自然宇宙の全てはプログラム通りに進行するという考えだ。残念ながら、この説を前提として世の中を考えると、人間はアンドロイドとなり、人間にとって、考えること自体が意味と価値を失ってしまう。

 人間の思考を支え、特徴付けるものとして、想像力・連想力・推察力が存在する。この想像力・連想力・推察力のパワーの違いが、人間と人間以外の動物とを大きく隔てているのだ。目前の危険を察知する、食物のありかを突き止める、その程度の思考であれば、人間と動物に大差はない。大差は、人間が想像力・連想力・推察力を駆使することによって、時空を超えて思考する点にある。

 ここで、意志(自由意志に限定されない広い意味)と想像力・連想力・推察力を関連付けてみよう。意志はこの想像力・連想力・推察力に方向性を持たせ、高度な意味ある論理を伴った思考を生み出す力である(逆の言い方をすれば、意志をベースに持つことのない想像力・連想力・推察力は、しばしば、空想と言われるものを生み出す)。そして、どのような意志の底にも、意味と価値を伴う感情のエネルギーが流れていることに留意しなければならない。従い、思考は論理的でなければならないが、通常、思考の方向性は、あらかじめ、意志により、即ち、その底を流れる意味と価値を伴う感情のエネルギーによって、決定されているのである。
言い方を換えれば、「思考は、先に方向性や結論があって、それに向かって論理が進んでいくことが多い」ということだ。社会科学の分野では勿論のこと、実験と帰納法的思考をベースとする自然科学の分野でも、閃きなどが先にあって、偉大な法則が発見されることが多いのである。

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30回折りたたんだら・・・

 30回折りたたむと、厚さ1mmの紙は、なんと、約1074kmの厚さになります。

 1回折ると2㎜、2回折ると4㎜、3回折ると8㎜、4回折ると16㎜、5回折ると32㎜、6回折ると64㎜、…
更に・・・128、256,512、1024、2048、4096,8192、16384、32768,65536,131072,262144,524288,1048576,2097152、4194304,8388608,16777216、33554432,67108864,134217728,268435456,536870912,1073741824・・・となります。

  よく聞く話ですが、驚きます。

不動明王の怒りと観音の悲しみ

 怒りについて話そう。「自分の立場しか視野に入らず、人間を怒りの対象として、破壊しようとするもの」と「他者の立場にも立ち、不公正や不公平を含めて悪を怒りの対象とし、それを破壊しようとするもの」の二つがある。
  後者の怒りを「不動明王の怒り」と呼ぶ。両者の違いを見分けるのは、極めて簡単である。前者は、人間に対する怒りであるから、自分自身の心身も破壊する。嫌な後味が残る。いつも怒っていると、自分自身の胃腸や十二指腸が破壊される。後者の怒りは、悪に対する怒りであり、嫌な後味はない。自我の拡大を伴う大きな愛の感情に支えられて晴れやかな安定感が残る。悪を実行した人間に対しても、愛の感情を注いでいるのである。罪を憎んで人を憎まず、悪を破壊し人を労わる。

ノウマクサンマンダバザラダンゼンダマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン
不動明王真言

  悲しみについても、同じことが言える。「自分のことだけの悲しみ」と「その自分の悲しみを乗り越えて悟った他者の悲しみ、即ち、他者の立場に立った悲しみ」の二つがある。 後者の悲しみを「観音の悲しみ」と言う。自我の拡大を伴う大きな愛の感情の中に同情や共感がある。

オンバザラタラマキリク
千手観音真言

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泣きと笑い

 感情が高まり、緊張やストレスが或る限界に達すると、それを無意識的に、且つ、一気に崩す仕組みが、心と体に連携して作られている。

 喜びと悲しみはコインの表裏である。喜びと悲しみが限界に達すれば、涙が出る。恐怖の場合には、失禁が生じる。ちなみに、オオクワガタの幼虫にも恐怖の感情が湧き上がる。オオクワガタの飼育をした人の多くは気付いているだろうが、菌糸瓶への入れ替え時に、急に箸で摘まんだりすると、恐怖の余り脱糞する。
この種の感情は、本能として、小さな脳の昆虫にも湧き上がるのだ。「感情とは何か、どこに存在するのか」を考える絶好のきっかけとなる。「お前はオオクワガタではないのに、なぜ、その感情が分かるのか」と言う人がいる。その質問に対する答えは、「他人の感情を直感するのと同じだ」と言うしかない。
創造主・自然の力は素晴らしいもので、この脱糞は、敵をびっくりさせる効果もある。また、少しでも体をスリムにして穴に逃げ込み易くする効果もある。オオクワガタに馴染みのない人は、蝉の小便を思い出して欲しい。

 少し、複雑なものが笑いである。基本的には、前述の仕組みと同じだ。緊張の消失に伴う安心感や満足感の中での笑い、緊張を保っていた認識に突然のずれが生じ一気に緊張が解けて安心した時の笑いなどがある。前者は、赤ん坊の笑いやホッとした時に出る柔らかな笑いだ。後者は、ジョーク、ユーモア、ウィットなどで、高度に選別されている。謎掛け遊びの中にも潜んでいる。単なるストレス解消から、人生を楽しくするもの、人付き合いでのトラブルを避けるものまである。文化的にも、社会的にも、とても大切なものだ。
さらに、笑いは複雑である。社会的な意思表示として、意識的に作ることもある。これらには、他の感情も入り混じっている。笑って、逆に、それに相応する心の状態を作るのだ。愛想笑い、作り笑い、ネガティブなものでは、嘲笑などが考えられる。
笑いとは、体の動作と心の状態が繋がって循環運動をしているものだ。どちらが先でも構わない。笑う門には福来たる。心が笑えば、体が健康になる。体が笑えば、ストレスから解放されて、心が健やかになる。

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意識進化の夜明け

  •  地球上での繁栄を謳歌する人類は、今、二十一世紀に、新局面を迎えつつある。我々自身が作り出している自然環境破壊を含めた数々の社会と心の問題は、ここ数万年来人類に繁栄をもたらしてきた自然宇宙の循環軌道に変化を与え始めているのだ。今のままの方向を維持して更に社会経済活動を推進すれば、「人類は近い将来自滅する」と断言しても過言ではなさそうだ。
  •  そのような局面であるからこそ、今、人類意識に進化の兆しがある。事実、この兆しは、地球上の多くの場所で、多くの人々の心に、同時多発的と表現してもよいような形で湧き上っている。だが、残念ながら、多くの人々と言ってはみたものの、これらの人々は、人類全体の数%にも満たないのが現状である。この兆しに、人類の代表である一般民衆の多くが同調することで人類意識は進化し、人類は更なる繁栄に向かって存続することが可能となる。
  •  今、人類全体の数%に湧き上がるこの意識は、その昔、聖人や賢者が「悟り・覚醒」などと呼んだものに近い。これまで特別の人にしか意識できなかったものが、より多くの人々の間で共有されるようになったのである。この進化の流れを加速させなければならない。
  •  だが、一般民衆の多くは、現在、このような意識とは正反対の現代社会を実質的に支配運営する大企業と政治経済パワーの複合体に同調している。この複合体は、一般民衆にパンとサーカスを与えている。また、目先の利益を提示する、その手法は現世的で単純明快、極めて分かり易いのである。
  •  しかし、お金で象徴される現世的で単純明快な目先の利益の背後には、拡大する経済格差、荒廃する人間の心と社会環境、破壊されつつある自然環境が存在している。これらは、紛れもなく人類が自滅の道を歩み始めていることを意味している。
  •  では、どのようにしたら、この進化した意識は一般民衆の同調を勝ち得るのであろうか。その具体的な方法の一つに、インターネットの利用がある。地球規模の柔軟なネットワークを構築して、地球生命体(ガイア)の心・頭脳の一部になろうという試みである。このネットワークは、光り輝く指導者のビッグ・ネームやその原典が独り歩きするようなものではない。ネットワークの各所にいる進化した意識のメンバーが、その自発性と自己責任で、それぞれ発信し、大きな方向性を共有した巨大な合成頭脳を作り上げるのが目的である。メンバー個々人の個性・経験・専門が、幅広く、深く、長期にわたって、反映され、累積されなければならない。
  •  こうして作り上げられる巨大な合成頭脳は、論理や知識だけを誇るものではなく、人類永続のために必要不可欠となる愛と倫理感情・自然との調和を大きな方向性維持の基盤とするものである。
  •  この試みは、我々の基礎意識が向かうべき方向性を示すガイドラインの普及を図るものであり、飽くまで、どの方向に向かうのかの最終意思決定は、当該個人に委ねられるものでなければならない。この点に於いて、従来からの宗教活動、政治活動、強制教育とは一線を画すものである。