人を呪わば穴二つ(作用反作用の法則)

人を呪わば穴二つ、「他人を呪い殺そうとすれば、その他人の墓穴に加えて自分の墓穴も用意する必要がある」というこの格言は唯物論に浸りきった大多数の現代人の心には余り響いていないようです。

ここで筆者は自然宇宙という言葉を使いますが、その定義は、物質宇宙と非物質宇宙を包含する全体宇宙を意味します。実は、物質宇宙は単独で存在しているのではなく、非物質宇宙の高い次元から来る力や法則がベースとなって、成り立っているのです。(この考えは、唯物論とは相容れません。唯物論では、これらの力は物質が生み出していると考えています。)筆者の考えに従えば、物理法則や化学法則も自然宇宙を構成する因果の法則の中の物質部分に関わる部分なのです。

我々は、学校で物理の時間に、作用反作用の法則を習いました。ボートに乗って岸壁を押せば、反作用でボートは岸壁から押されて離れます。あれと同じことが、心の世界にも、人間関係にも、存在するのです。従って、他人を非難すれば、回り回って、自分も非難されることになり、他人に悪意を向ければ、回り回って、自分にも、悪意が向けられるのです。

この法則を、頭ではなく、感覚や感情で理解できれば、他人を喜ばせたり、皆と仲良くすることが、自己の限られた視点からの善悪判断より、大切であることが分かるようになります。

筆者は、無宗教ですが、自然宇宙は、人間が想像することさえできない程優れた、超知的設計創造者が作り上げたもの、又は、その様な意志を持った生命エネルギーそのものであると考えています。人類は、人間にとって全体的には理解不可能な因果の循環の一部分だけを物理法則や化学法則として発見し、それを物質文明の構築に利用しているのです。自然宇宙には、科学の対象領域を超えた非物質の次元が存在しています。DNAの見事な配列は、物質が成り行きで偶然作り上げたものではありません。

この様な視点から、現代のメディアとそれに携わる人々、その報道に振り回されて妬み半分の正義心から見知らぬ他人まで非難する人々を見ていると、何か空恐ろしい気がします。

新しく優れたものは・・・

新しく優れたものは、それが世に出た時、社会から理解されることは極めて少ない。
もし、直ぐに高い評価を受けるならば、そう評価する人達が、既に、多数、社会に存在することになり、「それは新しいものではない」ということになる。

既成の知識層やマス・メディアが、理解しようとしない、注目することのないところで、 日々、地道に、努力を積み重ねている「名も無き人々」の土台作りによって、真の社会進歩は支えられているのだ。

科学と倫理の大前提

 科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)、そして、倫理感情を支える絶対感・真理感は、共に、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にある。
  しかし、それでも、科学や数学は、そのような前提の上に、客観的で確固たる体系を築くことができた。これをベースにした様々な技術の累積は、今や、物質宇宙に大きな影響を与える水準にまで達している。一方、倫理と言えば、3000年前のギリシャと比べて、殆ど進化していない。このギャップが、現代の文化文明を危険な道へと導いているのである。

 この危険な道から脱却するためには、人間の心に湧き上がる倫理感情に更なる力を与え得る新しい哲学が必要となる。その昔に作られた宗教や哲学は、多くの点で、科学や数学の客観的で確固たる体系の力によって修正されなければ、現代に通用しないのだ。
 宗教に潜む独善主義(例えば、教祖への盲信や原典主義)は、明らかに、時代遅れである。古くからある哲学の諸説も、科学的・論理的な矛盾があれば修正しなければならない。また、人間の能力では客観的な証明のできない、科学の対象範囲を超えた前提は、仮説として謙虚に提示されなければならない。

 一方、科学や数学も謙虚でなければならないのである。なぜなら、前述の通り、科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)は、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にあるからだ。宇宙の全てが、科学や数学的手法で解明されることはない。人間の能力を超えた領域を土台にして科学や数学が成り立っていることを忘れてしまっては、便利で物質的に豊かな現代文明も永続きはしないのである。