医術 Medical Treatment

 医術

医者は機械の修理工とは違う。しかし、現代の医者の多くは、まだ人間の肉体だけを見て物理と化学の世界に閉じ籠っている。確かに、コンピュータ技術やゲノム解析などの進展によって、21世紀の医学は、基礎分野に於いても、臨床分野に於いても、大いなる進化を遂げつつある。このような視点から見て、物理と化学の世界は、それは、それで大切なものだが、「人間は心と体で出来ている」という基本から外れては、真の意味で人間の病を治癒することはできない。

物質文明の偏りから来る教育システムの歪みが、心を忘れた多くの医者を作り出している。解剖学などでは、特に、「心の働きのある肉体とそうでない肉体は、必ずしも同一ではない」という基本認識をベースにしなければならない。

そもそも、昔から医者が特別に尊敬されて来た理由の一つは、「医者は、患者の全人格を考慮して、患者の治療に当たって来た」という歴史があるからである。

医術の目的は、肉体の病気を治療するだけではない。肉体に現れる病気の多くは、心が関与しているからだ。従って、肉体の延命も究極の目的ではない。「患者の心と体が健やかであるように導く」ことが、その究極の目的だ。古くからの成句の通り、「医術は仁術」である。

筆者の仮説から言えることは、「通常、潜在領域に於いて、心が先に死を決意して、それで、その後に肉体が死を迎える」ということだ。心が総合的な視野から死を決意した後に、医術が肉体の延命を図ることは空しい。

自然宇宙の摂理からすれば、全人間(心と体)は、自律的にその健康が保たれるように、設計されている。それにも拘らず、心の側から来る不調和か、肉体側から来る不調和が、病気の原因となる。いずれの場合でも、生活の質を向上させ、心を生き生きとさせ、自己免疫力の活性化を図るのが一番である。それが「病気治療の基本となる」ことに間違いはない。転地療法や気候療法の見直しを含め、「人格療法」のようなものを、今後、重視する必要がある。

Medical Treatment

 A doctor is not a machine repairman.  However, many modern doctors are still locked in the world of physics and chemistry, looking only at the human body.  Certainly, due to the remarkable progress in computer technology and genomic analysis, medical science in the 21st century is undergoing great evolution in both basic fields and clinical fields.  From this point of view, the world of physics and chemistry is still important in that respect. But you cannot heal human diseases in a true sense, if you deviate from the basic concept that “humans are made up of the mind and body” . 
Distortion of the educational system resulting from the bias of material civilization has created many doctors who don’t care about human heart.  anatomy has to have the basic concept that “the body with the work of the mind and the body without it are not always the same”.
In the first place, one of the reasons that doctors have been particularly respected since ancient times is that they have a history of treating patients in consideration of the overall personality.
The purpose of medical treatment is not just to treat physical ailments.  Many of the diseases that appear in the body involve the mind.  Therefore, prolonging the life of the body is not the ultimate purpose.  The ultimate goal is to “make the patient’s mind and body healthy”.  As the ancient phrase says, “medical treatment is benevolent act”.
We believe that “in the latent area, the mind usually decides to die first, and then the body dies.”  After the mind decides to die from a holistic view, it is vain that the medical treatment seeks to prolong the life of the body.
From the providence of the natural universe, all human beings (heart and body) are designed to maintain their health autonomously.  Nonetheless, the incongruity that comes from the mind side or from the physical side causes the disease.  In any case, it is the best to improve the quality of life, bring the mind to life, and activate the autoimmune power.  There is no doubt that this is the basis of disease treatment.  In the future, it is necessary to emphasize things such as “personality therapy” including review of translocation therapy and climate therapy.

人を呪わば穴二つ(作用反作用の法則)

人を呪わば穴二つ、「他人を呪い殺そうとすれば、その他人の墓穴に加えて自分の墓穴も用意する必要がある」というこの格言は唯物論に浸りきった大多数の現代人の心には余り響いていないようです。

ここで筆者は自然宇宙という言葉を使いますが、その定義は、物質宇宙と非物質宇宙を包含する全体宇宙を意味します。実は、物質宇宙は単独で存在しているのではなく、非物質宇宙の高い次元から来る力や法則がベースとなって、成り立っているのです。(この考えは、唯物論とは相容れません。唯物論では、これらの力は物質が生み出していると考えています。)筆者の考えに従えば、物理法則や化学法則も自然宇宙を構成する因果の法則の中の物質部分に関わる部分なのです。

我々は、学校で物理の時間に、作用反作用の法則を習いました。ボートに乗って岸壁を押せば、反作用でボートは岸壁から押されて離れます。あれと同じことが、心の世界にも、人間関係にも、存在するのです。従って、他人を非難すれば、回り回って、自分も非難されることになり、他人に悪意を向ければ、回り回って、自分にも、悪意が向けられるのです。

この法則を、頭ではなく、感覚や感情で理解できれば、他人を喜ばせたり、皆と仲良くすることが、自己の限られた視点からの善悪判断より、大切であることが分かるようになります。

筆者は、無宗教ですが、自然宇宙は、人間が想像することさえできない程優れた、超知的設計創造者が作り上げたもの、又は、その様な意志を持った生命エネルギーそのものであると考えています。人類は、人間にとって全体的には理解不可能な因果の循環の一部分だけを物理法則や化学法則として発見し、それを物質文明の構築に利用しているのです。自然宇宙には、科学の対象領域を超えた非物質の次元が存在しています。DNAの見事な配列は、物質が成り行きで偶然作り上げたものではありません。

この様な視点から、現代のメディアとそれに携わる人々、その報道に振り回されて妬み半分の正義心から見知らぬ他人まで非難する人々を見ていると、何か空恐ろしい気がします。

新しく優れたものは・・・

新しく優れたものは、それが世に出た時、社会から理解されることは極めて少ない。
もし、直ぐに高い評価を受けるならば、そう評価する人達が、既に、多数、社会に存在することになり、「それは新しいものではない」ということになる。

既成の知識層やマス・メディアが、理解しようとしない、注目することのないところで、 日々、地道に、努力を積み重ねている「名も無き人々」の土台作りによって、真の社会進歩は支えられているのだ。

科学と倫理の大前提

 科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)、そして、倫理感情を支える絶対感・真理感は、共に、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にある。
  しかし、それでも、科学や数学は、そのような前提の上に、客観的で確固たる体系を築くことができた。これをベースにした様々な技術の累積は、今や、物質宇宙に大きな影響を与える水準にまで達している。一方、倫理と言えば、3000年前のギリシャと比べて、殆ど進化していない。このギャップが、現代の文化文明を危険な道へと導いているのである。

 この危険な道から脱却するためには、人間の心に湧き上がる倫理感情に更なる力を与え得る新しい哲学が必要となる。その昔に作られた宗教や哲学は、多くの点で、科学や数学の客観的で確固たる体系の力によって修正されなければ、現代に通用しないのだ。
 宗教に潜む独善主義(例えば、教祖への盲信や原典主義)は、明らかに、時代遅れである。古くからある哲学の諸説も、科学的・論理的な矛盾があれば修正しなければならない。また、人間の能力では客観的な証明のできない、科学の対象範囲を超えた前提は、仮説として謙虚に提示されなければならない。

 一方、科学や数学も謙虚でなければならないのである。なぜなら、前述の通り、科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)は、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にあるからだ。宇宙の全てが、科学や数学的手法で解明されることはない。人間の能力を超えた領域を土台にして科学や数学が成り立っていることを忘れてしまっては、便利で物質的に豊かな現代文明も永続きはしないのである。