ngg001 の紹介

南房総に移住、趣味は自然・社会・人間について体験すること、考えること。歳を取って、世の中に何か良いものを残そうという気持ちが強くなってきた。「若い頃の罪滅ぼしか?」等と言われます。

小さな悟り

自分の為に、毎日毎日を、楽しく、面白く、充実して、生きることが、
他の人々の幸せや進化向上に繋がる、そうした生き方が良い。
愛の生命エネルギーに満たされた生き方だ。
周りの人々の笑顔が自分の楽しみなのだ。
不安、悲しみ、苦しみ、恐れ、苛立ちは、自ずと離れていく。

自分の意識は、永遠に存在しても良いし、無になっても良い。
それは、自分が永遠の再開を願う人々と同じ境遇にあることを意味している。
そうでなければ、何の意味もない。
再開できる場合は、お互いに喜べるし、無の場合は、お互いに何の意識もないだけだ。

こうして生きていくと、
不思議なことに、
「我々は永遠の存在である」という実感が心の中に定着して来る。
不思議なことに、
亡くなってしまった懐かしい人々からの確かなメッセージがやって来る。

唯心論と唯物論

人類は、この先も、進化繁栄を続けることができるのか?
それとも、戦争、環境破壊などによって、近い将来、絶滅してしまうのか?
今、人類は、その岐路に立たされている。

『唯心論と唯物論』

お釈迦様(仏教)、ギリシャのソクラテスやプラトン(イデア論)は、唯心論を説く。
ギリシャのデモクリトスは、原子論(唯物論の元)を説き、
現代に通じる体系的物理学・科学の基礎を確立したアリストテレス(プラトンの弟子)に大きな影響を与えた。
現代(西洋)文明下で教育を受けた大多数の者は、唯物論を建前に生きてはいるものの、心の中では魂の存在を半分程度信じている。
彼らの多くは、唯心論は科学で否定されていると誤解している。

科学とは、この時空間とそこに存在する物質を支配している法則、即ち、物理法則や化学法則などを発見し、それを技術的に応用する学問である。
「同一の環境条件下で、同一の原因を投下し、いつでも同一の結果を生み出す」ことから法則を発見するのである。
従い、なぜ時空間や物質が存在するのか、なぜ法則が存在するのか、これらを支えるエネルギーの力はどこから来るのか、などの疑問を解明することは、初めから、科学の範疇にはない。
科学が進歩すれば、「唯物論が正しくて、唯心論は間違っていると証明可能」と考えている人がいるならば、その人は科学が何たるかを基本から理解できていないのである。

あなたは、どちらに真実があると感じますか?

◆ 自分好みの家をイメージして設計図を作成し、それに従って家を建てた(唯心論的)。
◆ 建物を好き勝手に作ってみたら、規則性が見つかったので、後から設計図らしきものを作ってみた。物と物が絡み合って偶然規則性が生まれただけで、物より先に非物質的な概念や法則など存在するはずがない(唯物論的)。

【堀込清一仮説】

これは、科学で証明できる範囲にはないので、飽くまでも仮説である。
これを真実だと主張すれば、宗教に成ってしまう。歴史を見れば直ぐ分かるが、個々人が自分自身で考え判断することを止めて、教祖の言葉を鵜呑みにすることは非常に危険である。自分自身でよく考え探求して欲しい。

『宇宙生命エネルギー』

宇宙生命エネルギーとは、所謂、創造主のことであり、別の言い方をすれば、生命エネルギーとその創造結果で満ち溢れた宇宙(非物質宇宙と物質宇宙を合わせたもの)そのものでもある。
人型の神様ではなく、時間と空間を超越し、その自由意志で創造し存在する生命エネルギーなのだ。
空間に存在せず、即ち、形体はなく、時間に存在せず、即ち、永遠の存在である。
創造主は、その自由意志とエネルギー(意志・感情・概念・論理・記憶とこれらに付随する非物質エネルギー)によって、自らを、進化・成長・発展させる為の法則、因果律(物質宇宙の基本ルールである物理法則もここから派生)を生み出し、それに従って、宇宙を存在させている。この宇宙生命エネルギーは、自分自身でもある宇宙の全て(存在・現象)を、その究極の細部まで、常時(時間の外で)、意識している。

『非物質宇宙と物質宇宙』

非物質宇宙を「あの世」、物質宇宙を{この世}と呼ぶことにしよう。
この世は、あの世に存在するこの世と関係する領域が、あの世の法則に従い、光で投影されたもので、三次元空間を構成する波動である。
この世は、光速で投影されたものであるから、光より速い速度は存在しない。
しかしながら、ビッグ・バンから始まったこの物質宇宙の膨張速度は、その周辺では光速を超えていることが科学的にも証明されている。これは、この世と高次元接触しているあの世(時空間を超越している)との境界現象だからである。
又、量子力学で言う「量子もつれ」現象も光速を超えている。これは人間の意識・心の中での情報伝達が光速を超えていることを示している。即ち、意識・心は、時空間を超越したあの世に存在しているのである。「量子もつれ」は空想の産物ではなく、科学技術によって量子コンピューターの誕生に繋がっている。
更に、信じがたいことではあるが、心の世界での情報伝達はこの世の未来からこの世の過去にも到達する。卓球の球が強烈に打ち込まれた瞬間を想像してみて欲しい。相手の打球を目で見て脳で把握して心で返球を決定する。そして、脳が神経を通して筋肉に命令して打ち返す。この世での時間経過を考えれば、球が打ち込まれてから返球打点まで飛んで来る時間は、明らかに、返球の為のこのような神経の信号伝達時間よりも短い。にも拘らず、上達者は自分の意志で身体に命令して返球することができる。これは、最近の研究で明らかになったことなのだが、返球の為の筋肉への信号伝達開始は、相手の打ち込み時点より、僅かながら、前(過去)に起こっているのだ。後述の『心の仕組み』で説明する潜在領域が自律的に働いている。即ち、心の顕在領域での返球決定は潜在領域を通じて時間を遡り、何と、この世の過去に影響を与えているのである。

『この世はVR』

上述の通り、この世は、光で投影された波動である。何故、粒化して物質宇宙になるのか。原子も分子も、その元である素粒子が波動であれば、
全て波動ということである。それにも拘らず、「目に見えるものは物質である」とはどうしたものか。ここに科学的なメスを入れたのが、やはり、量子力学である。有名な二重スリット実験は、波動が人間の意識で認識された瞬間に粒化することを証明した。生命体の意識は、その感覚器官を通して(視覚・聴覚だけではない、全ての感覚を通して)、VRを現実と認識していたのだ。正に、般若心経の言う「色即是空、空即是色」であり、プラトンの言う「この世は、イデア界の投影された影」であった。

この世に投影された波動を個々の生命体がその感覚器官を通して物質として意識するのだから、個々の生命体が意識し経験しているこの世は、その感覚器官の観察範囲に限定される(正にVRの仕組みそのもの)。個々の生命体によってその観察領域や範囲は異なるのだから、生命体にとってのこの世は、それぞれ異なっているのだ。又、あの世に存在する意識が、この世の出来事に心の中で結び付ける感情も個々に異なるのだから(本能等による共通感情もあるが)、生命体ごとに、経験するこの世が無数に存在することになる。驚くことに、仏教では、遥か昔に、このことを説いている。

『多世界宇宙・パラレルワールド』

上述の『この世はVR』から、物質宇宙は『多世界宇宙・パラレルワールド』であることが分かる。貴方が、生き・経験してきたこの世は、唯一無二のものではなく、これと並行して、無数の生命体が生き・経験してきた無数の異なるこの世が存在するのだ。
一方、元々は、量子力学の矛盾を突くために提案されたものだったが、現在では、『多世界宇宙・パラレルワールド』探求の入口として研究されている「シュレーディンガーの猫」という有名な話がある。

(ネコと放射性元素のある密閉した鋼鉄の箱の中で、放射性元素の一時間当たりの原子の放射線崩壊率を50%とし、ガイガー計数管が崩壊を検知すると猫が殺される仕組みを作り、一時間後に観察者が蓋を開ける。観察者Aが意識・経験するまで猫の生死は決定していない。)

猫の生死が決定していない状態を量子力学では「重ね合わせ」と呼ぶ。即ち、この世には、異なる(矛盾する)存在・現象の種が重ね合って生じていることを意味している。但し、これは観察者Aにとってのこの世の話である。猫は猫の感覚器官を通してこの世を経験している。猫が経験した世界と観察者Aが経験した世界は猫の生死について異なる場合もあるが、両世界が別世界であれば、矛盾は生じないのだ。猫が生き続ける世界と猫が死んでしまった世界の両者が考えられるが、観察者Aは、蓋を開けて猫が死んだ世界を観察したならば、その世界で猫が生きていることを観察することはない。『多世界宇宙・パラレルワールド』が矛盾無く宇宙を編み上げているのである。
ここで、観察者Aのこの観察を外部から見ていた観察者Bのことも考えてみよう。観察者Bの経験する世界は、猫の経験する世界、観察者Aの経験する世界とは、又、別物である。
因みに、これら、全てを統合して意識・経験しているのが、創造主、即ち、宇宙生命エネルギーである。

『ニュートン力学・相対性理論・量子力学』

ギリシャ時代から続く静止物体に働く力の釣り合いを扱う静止力学に加えて、ニュートンは物体の運動に働く力の法則(慣性、加速、作用反作用、万有引力の法則など)を発見し動力学を確立した。これによって古典物理学は一応の完成を見たのである。これらは、この地球上(絶対時間と絶対空間を前提)に働く力を扱う理論である。

アインシュタインの相対性理論は、光の速度はどの観測場所でも一定不変であることを発見し、空間と時間は相対的に変化するものであることを示した。これは地球を超えた時空間(時間+三次元空間、即ち、物質宇宙)に働く力を扱う理論である。

量子力学は、物質の最小単位である素粒子を扱う学問であるが、この素粒子は同時に波動と粒子の性質を持つことが明らかにされている。粒子だけではないことから、この視点に立てば、量子という呼び名が相応しい。
これは、筆者の仮説であるが、量子力学は、時空間(時間+三次元空間)とあの世(意識・心が存在する高次元領域)との接触面を扱う理論である。

因みに、アインシュタインは、あの世の存在がその接触面で物理学の対象になるなどとは夢にも思わなかったのか、「量子もつれ」や「重ね合わせ」については、何かが狂っているとして、生涯、量子力学を批判していた。
量子論の育ての親、デンマークのニールス・ボーアとの論争は有名であるが、現時点に至っては、アインシュタインの分は悪い。

『我々はテレビのスクリーン画像をどこで見ているのか』

撮影現場にいる人は、その場の波動を感覚器官で粒化・物質化して見ている。テレビで見る人々は、一旦、電波(波動)として送られテレビのスクリーンに反映された波動を、そこから、感覚器官を通して粒化・物質化して見る。科学的に見て、電波の中にもスクリーン上にも物質化された画像はない。

物質化された画像は脳内で見ているのか(唯物論)、それとも、脳に高次元接触する意識(心)で見ているのか(唯心論)。
本仮説に依れば、この世に投影された波動としての脳(脳はあの世への架け橋)ではなく、あの世に存在する心で、見ていることになる。画像を見て或る種の感情が伴えば、顕在的な記憶として残る。無感情の場合、画像は潜在的に心を通り過ぎるだけである。記憶と感情にはこうした心の中での関連作用がある(効率的な学習には、感情を働かせる必要がある。興味の無いものを学習する場合には、感情・感動が乏しく、記憶という点に於いて困難が生じる)。
因みに、脳手術や電極実験などから脳内地図を作成したペンフィールドが、死の直前に、「どう探求しても、心は脳内には存在しない」と語った話は有名である。

『心の仕組み』

心を探求してみると、顕在領域と潜在領域が働いているのに気付く。

顕在領域では、意識する自我があり、因果の流れから独立した自由意志を駆使することができる。意識的な自力により、身体を使って様々な活動ができる。可能性が限定された小さな領域ではあるが、意識的な自己(自我意識は自己が経験してきた感情が絡んだ過去の出来事の順序だった記憶に支えられている)が、この世にその身体がある限り、喜びや苦しみと共に、進化を目指して、日々活動している。この領域は、進化すれば、潜在領域に向かって大きく広がっていくが、この世にある身体によって乗り越えることができない限界線も引かれている。

一方、潜在領域は、最終的には、創造主、即ち、宇宙生命エネルギーに繋がる無限の可能性領域である。創造主から分波された個々の生命エネルギーは、様々な進化状態にあり、それらの生命エネルギーは更に分波して、孫を作り、孫は更に分波して曽孫を作っている。これが繰り返され、宇宙(非物質宇宙と物質宇宙)には様々な生命活動が無限に存在している。因みに、物質宇宙に身体を持たされ、心と身体の循環活動によって心の進化を期待されているのが、我ら、人類である。
潜在領域内部には、その進化や特性に応じて様々な領域がある。これらは、包含されたり、一部重なったり、純粋に個的なものだったりして、無数に存在している。分かり易くする為、例えて言えば、日本人の潜在領域は、地球生命の領域に繋がり、哺乳類の領域、人類の領域に繋がり、現代西洋文化の領域、日本文化の領域、その人固有の領域などに繋がっている(ユングの言う集団無意識の概念に近い)。
潜在領域は、自我意識にとっては無意識的な他力の形で心と身体の活動を支えている。本能に支配された欲望・活動、自律的な心臓の鼓動などが、これに当たる。これらには、自我意識でコントロールできるものとできないものがある。自由意志によって獣の様な欲望を制御すること、意識して呼吸を一時的に止めることなどは、前者に属する。自我意識を進化させることで、潜在領域から来る無意識的な活動の幾つかは、自我意識でコントロールできるようになる。無意識で行っていた悪癖に気付いて矯正する、ヨガの達人は修行で一時的に心臓を止めることができるなどがそれである。

潜在領域を深く理解することで、或る種の悟りを得ることができる。ちっぽけな顕在領域にある自我意識だけが自分であると信じ込んで、他者や自然と対立して悪戦苦闘することから解放されるのである。宇宙も鉱物も植物も動物も他人も、全てが潜在領域で繋がっている大きな自分なのだということが分かってくる。自分の心は永遠の存在であり、創造主の一部なのだ。この状態を感覚的に理解すると、死への恐れも和らぎ、他者の気持ちも自ずと分かってくる。

『ゴリラの本能・チンパンジーの本能』

ゴリラは約1000万年前に人類とチンパンジーの祖先から分岐し、チンパンジーは約700万年前に人類と分岐したと言われている。ゴリラとチンパンジーは近くて人類は進化して別物と考えがちだが、実は、人類とチンパンジーはゴリラよりもずっと近くにあり、遺伝子ゲノムの差異は僅か1.23%である。
人類とチンパンジーは、家族を超えたグループを作って共同生活するのだが、恐怖心が強すぎてグループ防衛だけでは安心できない。近くにいる同種の他グループを侵略殲滅しようとする。又、人類とチンパンジーは共食い動物でもある。チンパンジーは他グループの子供を引き裂いて食べたりするのだ。これが人類の戦争本能に繋がっている。
一方、ゴリラは、強靭な肉体を持ち、家族単位で生活している。ゴリラは、できる限り、同種との争いを避けようとする。防衛に徹し、侵略殲滅はしない。有名なドラミングは、宣戦布告ではなく、防衛のための警告である。

この戦争本能(感情)をコントロールするための自我意識の拡大が、我々、人間、ひとりひとりに課せられている。人類社会は、更に、進化発展できるのか、滅んでしまうのか、核兵器が拡散した今がその分かれ道だ。
そもそも、自己の所属する種を殲滅しようとする動物など他にあるのだろうか。このまま行けば、宇宙の因果律(因果応報)によって絶滅することは明らかである。

『101匹目の猿』

或る島にいた若い猿が芋を海水で洗って食べ始めた。年寄りの猿は嫌な顔をしていたが、仲間の若い猿たちが次々に真似始めた。芋洗いの仲間が100匹に達した時、不思議なことが起こった。この島から遠く離れた別の島の101匹目の猿が、同様の芋洗いを始めたのだ。見て真似られる筈のない遠い島での出来事である。前述で説明した通り、この猿たちに共通の潜在領域に変化が生じたのである。
ダーウィンの延長線上にある現代進化論だけでは、生命体の真の進化の仕組みを説明することはできない。自然淘汰だけでは考えられないレベルにまで、都合良く、その種の望む形態・能力の進化が起こっているからだ。同種の仲間が多数集まって作り上げる強烈な共通感情(本能、行為、形態などに絡む)は、それに関連する潜在領域に変化をもたらすのである。分かり易くする為、敢えて言えば、鳥類は、その祖先が未だ恐竜だった頃、或る仲間たちの多くが空を飛びたいと強烈に思ったことから、翼を持つことになったのである(ダーウィン進化論の言う要素も相俟って働いていたとは思うが、それだけでは説明が付かない事例が多い)。

『価値はどこにあるのか』

今、目の前にダイモンドが輝いている。美しい。価値あるものだと思えて感動する。だが、騙されていたことを知らされる。これはガラスでできたイミテーションであった。その途端に、価値は消滅する。さて、価値はどこにあったのだろうか。物としてのイミテーションにあったのか、それとも、心に湧き上った意味や価値を司る感情(意味価値感情)にあったのか。後者であることは明らかである。
この認識は、物欲をコントロールするのに役立つ。そればかりか、この世の苦しみや悲しみを乗り越える知恵を与えてくれるものだ。喜びや感謝に満ちた人生を送る知恵を与えてくれるものだ。この世の事象は全て流れ去る。それを、苦しむのも、喜ぶのも、永続させるのも、消滅させるのも、すべて、心に湧き上がる意味価値感情である。苦しむのも、喜ぶのも、心の働きであり、この世の事象は間接的にこれに関与しているだけだ。

『善と悪』

宇宙には、陰陽二元法則がある。物質宇宙を考えた場合、真空の揺らぎを刺激すると、無から陰陽等価の素粒子(例えば、プラス電子とマイナス電子)が生まれる。これらを再び合流させれば、無に帰っていく。当然のことながら、物質宇宙の元である非物質宇宙にもこの法則は存在する。ここでは、感情を陰陽二元法則の観点から考えてみよう。
感情には、ポジティブ感情とネガティブ感情がある。前者には、愛情、喜び、楽しみ、安心、感謝、共感などがあり、後者には、憎悪、悲しみ、苦しみ、不安、恨み、孤立感などがある。勿論、これら以外にも無数の感情が存在し、強弱様々、重層的に重なり合っている。前者と後者は陰陽二元法則の下に誕生したものであり、前者が無ければ後者は無く、後者が無ければ前者は無い。それにも拘らず、前者に絡む行為・思考を善と呼び、後者に絡む行為・思考を悪と呼ぶことが多い。それには意味深い理由がある。宇宙の因果律(因果応報)によって、前者が支配的なグループは進化繁栄し、後者が支配的なグループは退化絶滅することになるからだ。神は前者の応援エネルギーであり、悪魔は後者の応援エネルギーだという人もいる。

価値基準・意思決定・社会規制 Value Basis/Decision Making/Social Regulations

可能な限り、価値基準(愛・自由・平等・民主・平和・人権・誠実・所有権など)は、最大範囲で共有し、意思決定は、最小単位(できれば個人単位が最善)で行う。
この考え方は、自然宇宙の法則に沿うものである。全ての存在は因果の法則に従っている。物理法則や化学法則は時間と空間に収まるすべての物質に適用されている。そして、全ての生命体は、本能に支配されながらも、その行動を個々に決定している。

従い、社会規制(法律など)は、常に、前者の大前提をベースにして、決定するのが良い。

As far as possible, value basis (love, freedom, equality, democracy, peace, human rights, honesty, ownership, etc.) should be applied to the maximum extent.
On the other hand, decisions should be made in the smallest unit (preferably individual unit). 

This idea is in line with the laws of the natural universe.  All beings follow the laws of causality, the laws of physics and chemistry apply to all matter that fits in time and space, and all life forms are controlled by instinct, but their actions are individually determined.

Therefore social regulations (laws, etc.) must always be based on this major premise.

どちらが幸せですか? Which is happier?

作者の仮説によれば、肉体の死後も心は時空を超越したあの世に残ることになる。人間の心は、この世にある肉体から受けていた影響がなくなることで大きく変容するが、記憶を含めて基本的な自我意識は存在する。

さて、ここで、なぜか、このような仮説を嘲笑う人もいるので、仮説の真偽を離れて、別視点から考えてみよう。肉体の死後に、自我意識が存在する場合と存在しない場合を比較する。以後、存在を信じるグループを存在派、信じないグループを非存在派と呼ぶ。

存在派は歳を取っても、元気である。なぜなら、肉体の死が自分の全ての終わりとは思っていないからだ。亡くなったお祖父さん、お祖母さん、お父さん、お母さん、そして、昔お世話になった懐かしい人々にも会うことができる。想起するだけで幸福感を味わえる。「あの世に行ったら、老人の体を脱ぎ捨てて、新しい何かに挑戦したい」などと考える。また、倫理的にも、優れた状態を保つことができる。誰でも地獄には行きたくないし、倫理感情に永遠性を感じるからである。
これに対し、非存在派は、肉体の死に臨んで、自分の全ての終わりしか考えられない。さらに、自分は単なる物質だと信じていれば、倫理感情の意味も失う。能力を失った老人は単なるごみでしかない。悲しく寂しい老後が待っている。頼れるものはせいぜいお金しかない。

ここで、さらに興味深い話に移る。

存在派は、肉体の死後に自我意識があることに気付けば、「そうだろう」と頷く。「そういう生き方をして来て、良かった」と改めて認識できる。一方、もし自我意識がなければ、何も意識しないまま、それだけだ。悔いも反省もない。自我意識が消滅するまで、希望や幸福感を持てた分だけ、得をしたのだ。
これに対し、非存在派は、どうだろうか。肉体の死後に自我意識のあることに気付けば、「大きな間違いをして来てしまった」と反省せざるを得ない。間違った信念を持って生きて来たことに大きな悔いが残る筈だ。一方、もし自我意識がなければ、何もないまま、それで、終わりだ。「自分の信念が正しかった」ということになるのだが、残念ながら、それを認識する意識がない。

即ち、こうした長期的な観点から見ると、非存在派の生きている時のその信念には意味と価値がないのである。この話は単なる笑い話ではない。真理の背景にある大きな知恵に気付いて欲しい。

雰囲気とその力 Atmosphere and Power

物質文明の下で、その存在について曖昧な扱いを受けている雰囲気の話をしたい。即ち、「空気を読めない人」の「空気」である。雰囲気は見えないが、「見えないものでもあるんだよ」と、ここで強く言いたい。なぜなら、雰囲気は、権力者でさえも、それに抵抗することが難しい強い力を持っているからである。

見えないものには、大きく分けて二種類ある。例えば、「呼吸する空気」や「熱」のように目には見えないがこの世(物質宇宙)の物質やそのエネルギーとして存在するものと、ここで言う雰囲気のように、この世には存在せずあの世(非物質宇宙)に存在するものの二つである。

*   ここで述べられていることをよりよく理解するためには、<堀込清一の【宇宙と心】>の<心はどこに存在するのか><この世に一番近いあの世の領域・その1>などを参照してください。

雰囲気の核となる個人の心に沸き上がるイメージや概念、それを支える感情、その感情の中に潜んでいる意味と価値は、二つの伝染ルートを通じて、関連集団内に蔓延する。関連集団は、地域の集まり、趣味のサークル、コンサートの観客から、政治団体、国民全体、全人類まで、多種多様で無数にある。

第一のルートはこの世の多くの人々の言動、例えば、噂や評判、流言飛語、そして、多くの人々の情動、例えば、感激、興奮、不安、恐怖などとそれに伴う肉体の状態変化や無意識の行為、これらが絡み合って関連集団内に溢れ、伝染・共鳴して、雰囲気となっていく。マス・メディアやインターネットなどは、これをさらに増幅する。第二のルートはあの世に始まる集合記憶伝達によるものである。あの世の関連集団の雲に、或る限度を越えて共通経験記憶とそのエネルギーが蓄積すると、その集団の人々の心の中で、その記憶に絡む伝染が急激に広がっていく。このルートでは意味と価値、そして、それを包含する感情が、理屈や道理を超えて、心に湧き上がって来る。従って、一度感染してしまうと、これに自由意志を持って抵抗することは、権力者を含め普通の人間では極めて難しい。この意味に於いて、雰囲気は強い力を持つものである。さらに、この感染は、二つのルートを通じて、この世からあの世へ、あの世からこの世へと、循環(創造循環)を繰り返して雪達磨式に拡大する。大組織は、自分たちに有利な雰囲気が生まれるように、一般民衆に向かって、常時、膨大な数の情報発信を続けている。膨大な数の受信者に膨大な数の発信をすることで、この二つのルートに、雪達磨式の循環拡大が始まることを経験的に知っているのである。

雰囲気と言っても色々なものがある。数人の友人の間に出来上がる一時的な雰囲気もある。それはこの世で生じ、あの世にとどまり、循環が生じることはない。ここで言う雰囲気とは、通常使われるものより、やや意味が広い。政治家・芸能人・スポーツ選手のイメージや人気、会社・商品のブランド、流行、ブーム、ムード、偏見、世相、景気感なども含まれている。また、「この世にある象徴から溢れ出るあの世にある本質の意味と価値、そして、そこから湧き上がる感情など」を雰囲気と言うこともある。例えば、一二月になると、クリスマスの雰囲気が漂う。また、「静かな雰囲気の森だ」などとも言う。

注意しなければならないものは、二つのルートで雪達磨式の急激な循環拡大をする雰囲気だ。これには良いものもあれば悪いものもある。隠れた本質が反映されているものもあれば、そうでないものもある。いずれにせよ、極めて強い力を持つ可能性がある。ヒトラーが考え出したとされる広報テクニックは、今や、広く企業の広告宣伝に利用されている。この人心操作術が、ユダヤ人大量虐殺を招いたのだが、今は、お金が支配する世の中の形成に役立っている。

圧倒的多数の民衆が醸し出す、いわゆる社会的雰囲気は、一度出来上がると、仮に、それが社会を大混乱に導くものであっても、止めることは難しい。雰囲気を支える感情、それが包含する意味と価値が強ければ強いほど、それを阻止することは、困難になる。先の見える一部の人々の警告は無視され、そのような警告を発するものは、一般民衆から、変り者、裏切り者、非国民などと罵られ、蔑視される。

このような状況になると、政界も、メディア業界も、その本質を露わにする。なんと、その分野の主流派が、この多数派民衆の支持に回るのである。一部の政治家やマス・メディアが一般民衆を煽って来たようにも見えるのだが、回り回って、その結果、一般民衆の間に強い社会的雰囲気が出来上がると、今度は、政治家やマス・メディアが、それに従わざるを得ない状況に陥るのだ。芯のある政治家・ジャーナリスト・知識人は、左遷されたり、拷問を受けたりする。我が国に於ける先の大戦が、その典型例だった。一般民衆には疫病ばかりでなく、この種の雰囲気病に対するワクチンも用意しなければならない。

因みに、中国には、「歴史書に何が書かれていても、農民の醸し出す社会的雰囲気が結局世の中を変えて来た」とする歴史観がある。現在では、農民と言うより、一般民衆と言った方が良いかも知れない。支配者は、いつでも、自分の力で世の中を変えたと歴史に記すが、一般民衆の醸し出す社会的雰囲気が変われば、やがて、呆気ない最期を遂げることになるのだ。これは、人類全体の歴史を見ても、当てはまることである。

本質と象徴 Essence and Symbol

この世(物質宇宙)で感覚器官が捉えた刺激は、そのままでは意味を為さない。その刺激は、生命体の物理脳を経由して、心に移る。顕在領域に入った刺激は、心の力によって、瞬時に、時間の無い次元、あの世(非物質宇宙)からダウンロードされる「その刺激に関連する法則、論理、概念、イメージ、記憶、感情など」と出会う。心の中心である自我意識が、それらを絡ませ解釈し、その刺激の意味付けと価値付けを行う。この意味付けと価値付けのベースとなるものは、その時、あの世から心にやって来たものの中の一つ、感情である。この瞬時に行われる一連のプロセスによって、この世での意識的な対応が取られる。
一方、潜在領域に入った刺激は、あの世に存在するその生命体の原型との間に出来上がっている紐付けに従って、反射的に(例えば、本能)、自律的に、この世での反応を引き起こす。

*   ここで述べられていることをよりよく理解するためには、<堀込清一の【宇宙と心】>の<心はどこに存在するのか><この世に一番近いあの世の領域・その1>、<心は鏡>などを参照してください。

ここで注目したいことは、自我意識が経験する意味と価値についてである。<堀込清一の【宇宙と心】>の<価値は何にあるのか>でも説明した通り、自我意識にとっての価値は、あの世からダウンロードされるものの中にある。意味も同じだ。この世に存在するものの中には、決してない。
これが意味することは、「この世に存在するものは、あの世に存在している本質の象徴となっている」ということだ。美術、音楽、文学、デザイン、演劇など、あらゆる芸術に秘められた力は、この世に象徴を創作し、それを見る人の心に「あの世にある、その本質、その意味と価値」を、引き込むことから生じるのである。

面白い話を聞いたことがある。或る達人は、毛筆の文字に現れる或る動きと日本舞踊の或る動作からの流れに、同じものを感じると言う。あの世にある一つの本質が、この世にある二つの別々のものから顔を出している例だ。人の顔付き、動作、姿勢、話し方、話の内容、声の質、等々、これらの中にもあの世にある本質が、無意識的にその姿を現す。

だが、この世にある象徴は、それと直結するあの世の本質との間にずれが生じることも多い。「時間差によるずれ」、「象徴が本質の一部のみを現している場合の全体とのずれ」などが考えられる。例えば、悪女の美顔について考えてみよう。美顔そのものは、間違いなく一つの美の本質の象徴であるが、その顔を持つ悪女の心根までは現していないということだ。一方、無意識的に現れるその場その場の表情や仕草には、心根をその時点で的確に象徴するものが現れている。

因みに、美男美女を追い求めること、それ自体は決して悪いことではないが、それよりも大切なものは心の美しさである。若い頃から、美顔が必ずしも美しい心を象徴しているとは限らないことに気付いていれば、より良い伴侶を得る確率は高まるのである。

愛と想像力を育むには Love and Imagination

お祖父さん、お祖母さんがいる。幼児は、寝る前に、お祖父さん、お祖母さんから、毎晩、毎晩、昔話を聞く。幼児は、これが大好きで、必ず寝る前におねだりする。同じ話を何回繰り返してもよい。幼児が喜んで聞くなら、それでよい。お祖父さん、お祖母さんも、これが嬉しい。
これは、一つの例え話であるが、このような雰囲気や環境が、幼児の愛と想像力を育むのである。この幼児は成長して、愛に満ち溢れた想像力豊かな人間になる可能性が大きい。

因果が絡んでこのような環境は出来上るのだが、自由意志によるところも大きい。但し、予め計画して作ることはできない。飽くまでも、個々人の自発性によっているからだ。お金を払って仕事として昔話を聞かせたとしても、そこに、お祖父さんやお祖母さんの愛は存在しない。幼児を初めとして、関わる全ての人たちに、自発的に生じる愛や喜びがなければならないからだ。物質文明はこの点を見逃している。情報だけでは人間は豊かに育たない。
幼児は、愛の本質に触れて、その意味と価値、その感情エネルギーを無意識的に吸収する。守られているという安心感も付随する。それが繰り返されることで、幼児の心の中に、後天的に、具現化した愛の感情との強い紐付けが出来上がるのだ。

一方、お祖父さんやお祖母さんは、単にお話をするだけで、そこには絵本のような具体的なイメージはない。それが、又必要なのだ。幼児は愛と安心感の中で、その時期に与えられた本能的な力を駆使して、想像の翼を大きく広げる。話の中身から、イメージが次々と湧き上がり、昔話は絵本のイメージ以上に生きて彩り豊かなものとなる。そこでは、様々な感情が幼児のイメージに入り乱れ、意味と価値を強く浮き上がらせる。このようにして想像力は豊かな感情と共に育まれ、思考の力も成長していく。

因みに、想像力を駆使して理想的な生きたイメージを楽しむ為には、テレビ、映画、IT動画などは不向きだ。漫画本は、まだ絵と絵の間を理想的な動きで繋ぐこともできるが、全てのイメージと動きが与えられてしまうと、想像力の働く余地は少なくなる。
動画は情報収集には適しているが、想像を本当の意味で味わうのであれば、他者が作ったことによる限界が立ち塞がる。自分の好きな小説が映画化されたのを見れば、このことがよく分かる筈だ。

知識と知恵 Knowledge and Wisdom

「1足す1は2である」と言えば、誰でも「それは小学一年生の知識でしょう、いや、今は、幼稚園でも教わるかな」などと言う。それでは、バケツ一杯の砂とバケツ一杯の砂利を足すと、バケツ何杯になるのか。これは、その場その場の状況で、答えが違って来るので難しい。そもそも、周囲の状況から切り離された個別の知識というものは、それだけでは単なる情報に過ぎない。その意味では、コンピュータの方が、今や人間よりずっと優れている。

知識は、自然宇宙の中でそれを取り巻き複雑に関連し合っている他の要素から切り離され、或る前提条件の下に独立した形で提示される。従って、そのような乾いた知識がいくらあっても、それだけでは現実世界に通用しない。

現実世界に存在する複雑な周囲の状況を把握し、それらとの関係を理解して、初めて、乾いた知識は潤いのある生きた知識となる。乾いた知識に潤いを与える働きが知恵であり、それは、経験や先天的な閃きから生じる。人間の認識は、その対象の周辺が微妙に暈けている。認識対象とその周辺との関係が明瞭であればあるほど、さらに、含まれる視点が多ければ多いほど、知識は潤いのあるものになって来る。

知恵の伴わない乾いた知識は、時として悲惨な結果を招く。例えば、SNSだ。その利用方法には習熟していても、人生経験の浅い者にとっては、却って、SNSは危険な領域となる。自然環境の中で徐々に育っていく人間関係とSNSの中で作られる人間関係の違いが理解できないからだ。

従って、乾いた知識が蔓延する現代社会に於いては、知恵がますます必要になって来る。最近では、残念なことではあるが、スマホやインターネットなどの便利な情報通信機器やゲーム機器などに支配されて、著しく能力が偏り、人間としての総合能力が退化してしまったアンドロイドのような人たちを多く見かける。

Speaking of “1 plus 1 is 2″, anyone would say “That’s the knowledge of the first graders, no, now , your grandson will be taught in the kindergarten.”  Then if you add a bucket full of sand to a bucket full of gravel, how many buckets will be needed?  This is difficult because the answer will be different depending on the situation and surroundings. The sand enters between the gravel.

The independent knowledge separated from the situation and surroundings is just information.  As far as information is concerned, computers are now much better than humans.

Knowledge is separated from other elements that are complexly related to it in the real world and it is presented in an independent form under some limited conditions.  So, no matter how much such dry knowledge you have, it doesn’t work in the real world. Only after understanding its complex surroundings existing in the real world and also understanding its relationship with them, knowledge will become alive and well. Wisdom is a wonder drug to moisture dry knowledge so that it can work in the real world. Wisdom is born from innate inspiration and much experience.

Human perception is subtly blurred around the subject.  Recognition target has its surroundings under any circumstances. The clearer the relationship between recognition target and its surroundings becomes and the more viewpoints are involved from its surroundings, the more your knowledge can work in the real world.

Dry knowledge without wisdom sometimes bring about disastrous consequences.  For example, SNS.  Those who are proficient in how to use a computer, but inexperienced in life, sometimes get involved in a horrifying event. This is because they cannot understand the difference between human relationships which grow in the real world and those created by SNS.

Therefore, wisdom is becoming more and more important in the modern society where dry knowledge is prevalent. Being dominated by convenient information and communication devices such as smartphone, Internet and so on, the number of android-like people who are biased and have deteriorated in their overall human ability has increased unfortunately.

特許権・著作権 Patent and Copyright

特許権・著作権

あなたの脳はあなたが作ったものですか?あなたの使っている言語はあなたが作ったものですか?あなたの使う算術や数学はあなたが考え出したものですか?あなたの科学的な知識はあなたが初めて発見したものですか?あなたは、親から生まれ、親や周りから色々なことを吸収して育ち、学校で学び、それらが、現在のあなたの考えのベースに成っているのです。

そんなあなたが特許権や著作権を持っているとして、あなたの“オリジナリティーのみ”に帰するところは何処まであるのでしょうか?そもそも、オリジナリティーとは、“現に存在しているものの新しい組み合わせやその初めての発見”でしかないのです(本ブログに掲載されている「堀込清一の宇宙と心」にある「組み合わせとオリジナリティー」を参照してください)。

そうであれば、特許権や著作権に絡む金銭的要求から、その素晴らしい果実を人々が利用することを阻むことには、自然宇宙の法則からも、倫理道徳的にも、多少問題が有るのです。努力に対する報酬、並びに、開発費用等の回収は、当然、必要です。即ち、特許権や著作権は守らなければなりません。しかしながら、現在のグローバリズムに蔓延る過度の金銭的要求、長期に亘るその利用制限は、明らかに歪んだものです。一刻も早く、世界の人々が、たとえ貧しい国々の人々でも、その素晴らしい果実を享受できるよう、新しい制度を作り上げなければなりません。人々の、特に、政治・経済・文化を支配する階層の意識レベルを上げるための啓蒙が必要です。

 

Patent and Copyright

Is your brain made by you?  Is your language made by you? Did you invent the arithmetic or math which you use? Did you discover your scientific knowledge by yourself?  You are born of your parents, grow up by absorbing various things from parents, people around you, of course, from school and they form the basis of your current thinking.

Assuming that you have a patent right or copyright, to what extent does it attribute to your own originality? In a true sense, “originality” means a new combination (or its first discovery) of what already exists in the natural universe. (Please refer to “ Combination and Originality” which you can see in “Universe and Mind written by Seiichi Horigome” for this website.)

Therefore, both from the laws of the natural universe and the ethical viewpoint, there must be some restrictions against patent and copyright’s claiming monetary rewards when people utilize these wonderful fruits. Of course, rewards for making efforts and recovery of development costs are necessary. That is, patent rights and copyrights should be protected. However, their excessive money demands and long validity term prevailing in the current globalism are obviously distorted.  As soon as possible, we must change the rule so that people in the world, even those in poor countries can enjoy these wonderful fruits. Enlightenment is required to raise the level of consciousness of the people who control politics, economy and culture.

ナリ気(成功を招く気)とヘマ気(失敗を招く気) Nariki(sentiment power of success) and Hemaki (sentiment power of failure)

ナリ気(成功を招く気)とヘマ気(失敗を招く気)

筆者は、この自然宇宙が物質だけで出来ているとは思っていない。筆者が説く仮説に従えば、自然宇宙のベースは、非物質エネルギー(意志や感情、法則、概念、イメージ、記憶等、そして、これらに絡む力)であり、物質宇宙はその一部領域の投影、現代風に表現すれば、生命存在の感覚を利用したバーチャル・リアリティーなのである。生命存在の肉体部分は感覚器官を含めて物質宇宙に属し、心は非物質エネルギーである。 生命存在それぞれが持つ心が物質宇宙とそこから来る刺激を存在として実感する仕掛けの壮大な仮想現実ということだ。仏陀の言う「この世の出来事は各々の心が作り出している」という意味は、このように説明したら、現代人にも分かり易いだろう。

一方、自然宇宙の大法則である因果は物質宇宙にも適用されている。その物質宇宙の法則を明らかにしていくもの、それが科学である。だが、我々が、自由意志によって、或る目標を成功裏に達成しようとする場合、それは、物質宇宙に止まらず、心の領域も絡んでいる。従い、物質宇宙の法則、例えば、物理法則や化学法則の因果関係だけを捉えても、うまくはいかない。自然宇宙、即ち、全宇宙の因果の大法則を視野に入れなければならないのだ。

自然宇宙の因果の大法則の全容は、人間の理解できる領域を遥かに超えている。時間と空間を超越した非物質エネルギーの次元領域を実感として捉えることさえできないのだから。だが、その一部を覗き込むことは可能だ。

因果とは、その法則に従った無数の「原因→結果」の絡み合いが無限に連鎖していくことだ。あなたが、或る目標を成功裏に達成しようとする場合、これら無数の原因の一部を、あなたは自由意志によって創造し、それを因果の流れに投入し、狙い通りの結果を得ようとしているということになる。だが、この流れにも、あなたの自由にならない他の原因が無数に存在している。従い、狙い通りの結果に近付くためには、その結果に繋がる流れに、できるだけ多くの、且つ、有力な原因を、あなたの自由意志によって投入しなければならないのだ。この為には、上述の通り、物質宇宙だけを視野に入れていては、投入する原因が限られてしまう。自然宇宙、即ち、全宇宙の因果の大法則を視野に入れなければならない。だが、真剣に念ずれば実現するなどという簡単な話ではない。

自然宇宙の因果の大法則とは何か。当然、物質宇宙を支配する物理法則や化学法則も含まれるが、理解を深めるため、この因果の大法則の簡単な例を挙げてみよう。実は、物理でいう作用反作用の法則は、物質宇宙を超えて自然宇宙、即ち、全宇宙に通用するものなのだ。「他人にしたことは、長いプロセスを視野に入れれば、必ず、本人に返ってくる」というものである。仏教では、因果応報と呼んでいる。「ボートに乗って岸壁を押せば、ボートは反対方向に押し返される」という物質宇宙の因果と同様である。因みに、過去数百年に亘る自然の調和及びその循環に逆らった環境開発(物質宇宙だけの問題ではない)への反作用は、今後数百年に亘って現代文明に影響を与えることになるだろう。

さて、ここで、本題に進もう。或る目標を成功裏に達成しようとする場合、その結果に繋がる因果の流れに、できるだけ多くの、且つ、有力な原因を、あなたの自由意志によって投入しなければならない。物質宇宙の因果は、よく分かっていると思うので、ここでは言及しない。そこで、あなたの自由意志でコントロールが可能な感情やイメージの問題を考えてみる。

先ず、成功を招く「感情やイメージとそれに絡むパワー」、即ち、「ナリ気」と、失敗を招く「感情やイメージとそれに絡むパワー」、即ち、「ヘマ気」について、明確な知識を持つよう勧めたい。又、それらがあなたの心に生じていることに気付くための内省鍛錬も必要であると言いたい。あなたの意識がこれらを捉えることができるならば、あなたの自由意志は、これらをコントロールすることが可能になる。

「ナリ気」とは、柔らかさ、安心、落ち着き、調和、共感、勇気、自信、無執着、爽やかさ、憧れ、喜び、愛、成功イメージ、などの感情複合体とこれらに随伴する集中力、持久力、洞察力、想像力、創造性、活力などのポジティブ・パワーの結合体である。これが、心に生ずれば、成功に繋がる原因がそれだけ増えたことになる。熟達すれば、「ナリ気」が生じた時には、一瞬でこれを認識することができる。結果に絡む原因が少ない目標ならば、物質宇宙の因果(当然、できる範囲)と、心に生じたこの非物質エネルギー「なり気」をあなたの自由意志でコントロールすれば、成功する確率は急激に上昇する。

「ヘマ気」とは、硬さ、不安、焦り、不調和、対抗心、差別感、怖気、失敗イメージ、劣等感、執着、憂鬱感、蔑み、苦しさ、悲しさ、憎悪などの感情複合体とそれらに絡んで不注意、無関心、投げやり、情緒不安定、臆病、無思考、冷淡、残虐、攻撃性、過度の征服欲、破壊、破滅などを生み出すネガティブ・パワーの結合体である。絶対に勝てるなどと言い張って、不安を抱えながらも執着し強がる心境である。「ヘマ気」が生じた時、これを認識することができたとしても、コントロールすることは、前者に比べて、難しい。「ヘマ気」が生じること自体、一つの結果であり、これを生む原因を、別途、除去する必要のあるケースが多い。その時その場による軽度の「ヘマ気」であれば、意識し、心を安定させることで、これを克服することも、勿論、可能である。“勝つと思うな、思えば負けよ、勝ちにこだわり、「ヘマ気」が生ず。”

当然のことながら、「ナリ気」と「ヘマ気」は混合したり、交互にやって来たりするので、内省に熟達して明確に意識できるようになるには、それなりの鍛錬が必要である。

最後に、あなたが人生に成功を望むならばならば、「ナリ気」が感情のベースとなるような人格を形成すべきだと言っておこう。

Nariki(sentiment power of success) and Hemaki (sentiment power of failure)

I don’t think that this natural universe is made up of matter alone.  According to my hypothesis, the base of the natural universe is non-material energy (will, emotion, law, concept, image, memory, etc., and the power involved in these), and the physical universe is a projection of its partial area.  If you say in a modern way, it is virtual reality that uses the sense of living beings.  The body part of living beings belongs to the physical universe, including the sensory organs, and the mind is non-material energy.  It is a magnificent virtual reality in which the mind of living beings feels the physical universe and the stimuli  coming from it as beings. Buddha said that the events of this world are created by each mind of living beings . This means the above mentioned, which modern people can understand more easily.

On the other hand, the cause and effect, which is the great law of the natural universe, is also applied to the physical universe.  Science is what reveals the laws of the physical universe.  But when you try to achieve a certain goal successfully at your free will, it involves more than just the physical universe, but also the realm of mind.  Therefore, capturing only the causal relations between the laws of the physical universe, such as the laws of physics and the laws of chemistry, does not work.  The natural universe, the great law of the cause and effect of the whole universe, must be considered.

The whole law of causality of the natural universe goes far beyond the realm of human understanding.  It is not possible to even perceive the dimensional domain of non-material energy that transcends time and space.  However, it is possible to look into part of it.

Causality is an infinite chain of countless entanglements of “cause → effect” according to that great law.  If you are trying to successfully achieve a goal,  you should create some causes at your own free will and inject them into the causal stream to get the desired result.  But there are innumerable reasons in this stream that can’t be controlled at your free will.  Therefore, in order to get close to the desired result, you must put as many and influential causes as you can into the flow that leads to the result.  For this reason, as described above, if only the physical universe is included in the field of your view, such injected causes will be limited.  The natural universe, that is, the great law of the cause and effect of the whole universe, must be considered for this purpose.  However, it is not a simple story that the desired result will come true if you have it in your mind strongly.

What is the causal law of the natural universe?  Of course, it also includes physical and chemical laws that govern the physical universe, but for better understanding, let’s give a simple example of this causal law.  Actually, the law of action and reaction in physics is one of the causal law of the natural universe, that is, the entire universe, beyond the physical universe.  Therefore, basically the same law of action and reaction can be applied to the events in the realm of mind. “What you have done to other people will always come back to you if you look at the long process”, they say.  In Buddhism, this is called “causality”.  It is quite similar to the cause and effect of the physical universe: “If you get on the boat and push the quay, the boat will be pushed back in the opposite direction.” For this reason, I am afraid that reaction to the environmental development and destruction (not just the matter of the physical universe) neglecting the harmony of nature and its circulation over the past few hundred years will affect modern civilization over the next few hundred years.

Now, let’s move on to the main subject.  If you want to achieve a certain goal successfully, you must put as many and influential causes as you can into the causal flow that results.  The causality of the physical universe is well understood by you, so I will not mention it here.  So, let’s think about the emotional and image problems that you can control at your own free will.

First of all, have a clear knowledge about two types of feeling and image accompanied by some kind of power, that is, “Nariki” which leads to success, and “Hemaki,” which leads to failure.  You also need introspection training to find out what is happening in your mind.  If your consciousness captures these in your mind, your free will can control them.

“Nariki” is a kind of sentiment power complex which is composed of feeling of softness, safety, calmness, harmony, sympathy, courage, self-confidence, non-attachment, refresh, yearning, joy, love and image of success, etc. accompanied by the related positive power such as concentration, endurance, insight perception, imagination, creativity, vitality and so on. If these things come to mind, it means the cause for success has increased accordingly.  With experience, you can instantly recognize it when you have a feeling of “Nariki”.  In case your goal has only few causes related to the result, the probability of success will rise sharply if you control the cause and effect of the physical universe as much as possible and also control “Nariki” in your mind at your free will.

“Hemaki” is a kind of sentiment power complex which is composed of feeling of  hardness, anxiety, impatience, incongruity, opposition, discrimination, fear, inferiority, persistence, depression, contempt, suffering, sadness, hatred and image of failure, etc. accompanied by the related negative power which produces carelessness, apathy, throwing, emotional instability, timidity, thoughtlessness, coldness, cruelty, aggression, excessive desire to conquer, destruction, ruin, etc.  We often persistently insist that we will definitely win while having strong anxiety, that is “Hemaki”. Even if you can recognize that “Hemaki” come to your mind, it is more difficult to control it than the former.  Occurrence of “Hemaki” is a result in itself, and the cause of this may need to be removed separately.  Of course, it is also possible to overcome this by recognizing and stabilizing your mind if it is a slight “Hemaki” at that time.  Don’t think you’ll win, because if you strongly think about it, “Hemaki” will beat you up.

As a matter of course, “Nariki” and “Hemaki” come together and alternately, so it takes some training to become proficient at this kind of introspection.

Finally, if you want to succeed in your life, I would say that you should form the personality where “Nariki” is the basis of your sentiment.

医術 Medical Treatment

 医術

医者は機械の修理工とは違う。しかし、現代の医者の多くは、まだ人間の肉体だけを見て物理と化学の世界に閉じ籠っている。確かに、コンピュータ技術やゲノム解析などの進展によって、21世紀の医学は、基礎分野に於いても、臨床分野に於いても、大いなる進化を遂げつつある。このような視点から見て、物理と化学の世界は、それは、それで大切なものだが、「人間は心と体で出来ている」という基本から外れては、真の意味で人間の病を治癒することはできない。

物質文明の偏りから来る教育システムの歪みが、心を忘れた多くの医者を作り出している。解剖学などでは、特に、「心の働きのある肉体とそうでない肉体は、必ずしも同一ではない」という基本認識をベースにしなければならない。

そもそも、昔から医者が特別に尊敬されて来た理由の一つは、「医者は、患者の全人格を考慮して、患者の治療に当たって来た」という歴史があるからである。

医術の目的は、肉体の病気を治療するだけではない。肉体に現れる病気の多くは、心が関与しているからだ。従って、肉体の延命も究極の目的ではない。「患者の心と体が健やかであるように導く」ことが、その究極の目的だ。古くからの成句の通り、「医術は仁術」である。

筆者の仮説から言えることは、「通常、潜在領域に於いて、心が先に死を決意して、それで、その後に肉体が死を迎える」ということだ。心が総合的な視野から死を決意した後に、医術が肉体の延命を図ることは空しい。

自然宇宙の摂理からすれば、全人間(心と体)は、自律的にその健康が保たれるように、設計されている。それにも拘らず、心の側から来る不調和か、肉体側から来る不調和が、病気の原因となる。いずれの場合でも、生活の質を向上させ、心を生き生きとさせ、自己免疫力の活性化を図るのが一番である。それが「病気治療の基本となる」ことに間違いはない。転地療法や気候療法の見直しを含め、「人格療法」のようなものを、今後、重視する必要がある。

Medical Treatment

 A doctor is not a machine repairman.  However, many modern doctors are still locked in the world of physics and chemistry, looking only at the human body.  Certainly, due to the remarkable progress in computer technology and genomic analysis, medical science in the 21st century is undergoing great evolution in both basic fields and clinical fields.  From this point of view, the world of physics and chemistry is still important in that respect. But you cannot heal human diseases in a true sense, if you deviate from the basic concept that “humans are made up of the mind and body” . 
Distortion of the educational system resulting from the bias of material civilization has created many doctors who don’t care about human heart.  anatomy has to have the basic concept that “the body with the work of the mind and the body without it are not always the same”.
In the first place, one of the reasons that doctors have been particularly respected since ancient times is that they have a history of treating patients in consideration of the overall personality.
The purpose of medical treatment is not just to treat physical ailments.  Many of the diseases that appear in the body involve the mind.  Therefore, prolonging the life of the body is not the ultimate purpose.  The ultimate goal is to “make the patient’s mind and body healthy”.  As the ancient phrase says, “medical treatment is benevolent act”.
We believe that “in the latent area, the mind usually decides to die first, and then the body dies.”  After the mind decides to die from a holistic view, it is vain that the medical treatment seeks to prolong the life of the body.
From the providence of the natural universe, all human beings (heart and body) are designed to maintain their health autonomously.  Nonetheless, the incongruity that comes from the mind side or from the physical side causes the disease.  In any case, it is the best to improve the quality of life, bring the mind to life, and activate the autoimmune power.  There is no doubt that this is the basis of disease treatment.  In the future, it is necessary to emphasize things such as “personality therapy” including review of translocation therapy and climate therapy.

正誤の争いより素朴な倫理感情 Simple Ethical Sentiment

昔から多くの賢人が言っているように、素朴な倫理感情を正誤の争いに優先することが大切だと思う。
法律と倫理感情がいろいろな点で食い違うときには、当然、それぞれの点で倫理感情を優先すべきであろう。法律は、本来、倫理感情をベースに成り立つべきものだが、複雑な社会の中で、権力、金、文化などの影響を受けて、倫理感情から離れて硬直化する性質を持つ。近未来には、この点を考慮した弾力性のある社会システムを構築する必要がある。
法律で許されるなら倫理感情は無視しても構わないなどと考える人間が権力を持っている国は、いつの時代でも、悲惨である。 正義を大義名分にして、多くの罪のない人々を殺す・不幸にする戦争は、どんなものであれ(宗教上の争いを含めて)、素朴な倫理感情を蔑ろにしたものである。

As many sages have said for a long time, I think it’s important to prioritize naive ethical sentiment over right and wrong fights.
When law and ethical sentiment differ in many respects, of course, ethical sentiment should be prioritized in each respect. The law should be based on ethical sentiment, but in a complex society, it has the property of being stiffened away from ethical sentiment under the influence of power, money, and culture. In the near future, it is necessary to build an elastic social system that takes this into consideration.
A country where political leaders have the right to think that ethical sentiment can be ignored if the law allows it, is always disastrous. Whatever the cause of justice is, killing or making unhappiness of many innocent people (including religious disputes and wars) despises simple ethical sentiment.

因果001

「他人が何とかしてくれる」と思っている人は、何をやってもうまくいかない。

「自分で何とかしなければ」と努力する人には、外から助けがやって来る。

自由・平等・民主主義と真社会性 Freedom,Equality,Democracy and Eusociality

現進化段階の人類にとって、数多くの矛盾を内包するものではあるが、やはり、自由・平等・民主主義は、我々社会が向かうべき基本的な方向性を示していると思う。
だが、この自然宇宙の超知的設計創造者は、社会性を模索する生命種に対し、自由・平等・民主主義とは全く異なる、進化の方向も呈示している。それが、真社会性である。

真社会性とは、アリやハチ等の集団によく見られる社会性を定義する言葉である。社会を維持するための役割分担が、遺伝的固定性を持って、体やその機能の違いにまで及んでいる進化形態である。多くの場合、生殖は少数の女王に任せられ、一般の雌は、女王に比べて体も小さく、不妊であり、仕事や戦いに、その役割を担う。
定義を緩やかに考えた場合、アリやハチばかりでなく、カメムシやアブラムシや甲虫、クモやハダニ等にも、真社会性を呈するものが存在する。或る種のアブラムシでは、天敵を攻撃する役割を与えられた幼虫(前二対の足が発達している)は、二齢になることなく、即ち、成虫になれずに死んでいく運命を持つ。
この他、サンゴ礁に集団で生息する或る種のテッポウエビにも真社会性が認められるし、更には、哺乳類にも、真社会性を持つものが発見されている。ハダカデバネズミ、ダマラランドデバネズミである。ハダカデバネズミは、体長10センチ程度の出っ歯の体毛無しネズミで、エチオピアやケニア等の地中にトンネルを掘って集団で棲んでいる。アリやハチと同様に、女王ネズミと生殖器官が発達しない働きネズミに分化している。
個体が形態・機能的に分化して集合体となる群体にも言及しておこう。植物では、ケイソウ類に、動物では、カイメンやクラゲの仲間等に見られる。これも、真社会性がその方向を極めた一つの結果であると考えられる。

さて、本題に戻ろう。人類も、社会性を持つ種である。今後、社会が効率化して、益々、高度な役割分担が要求されると考えられる。効率化を第一目標にすれば、真社会性が強く求められる。だが、それは、自由・平等・民主主義とは一致しない点も多い。
男性と女性の形態的・機能的分化は既に与えられたのものだが、今後、社会的役割として、どうしていけばよいのだろうか。働き過ぎや過度のスポーツをする女性グループが何世代も続くことで、不妊カーストが発生する恐れはないのだろうか。本能的に与えられている競争と協調の意識矛盾をどうバランスさせればよいのだろうか。人間的・頭脳的・技術的・肉体的に優秀なグループとぼんやり人真似グループの社会的役割と待遇をどう考えたらよいのだろうのか。社会に害悪をもたらそうとする人間や怠け者と手を差し伸べなければいけない社会的弱者をどう切り分けたらよいのだろうか。
又、次の様な視点から、社会を見る必要もある。ハダカデバネズミの場合、働きネズミが、女王ネズミを妬んだり、自分の境遇に対し不満を持つことはない。全て、本能の為すところである。人間の場合、意識が進化している分だけ、妬んだり、不満を持ったりする。実は、自由・平等・民主主義には、共産主義も同様だが、高邁な理念の裏に、このようなネガティブな感情が潜んでいることもあるのだ。幸福とは何かという疑問に答える際に、一つのヒントを与えている。

人類社会の向かうべき方向性を模索する場合、自由・平等・民主主義と真社会性の二つの視点から考えてみるのも面白い。

For humanity at the present evolutionary stage, although it contains many contradictions, I think that freedom, equality, and democracy still show the basic direction that our society should take.
However, the creator of the natural universe’s super-intelligent design also presents a direction of evolution, which is completely different from freedom, equality, and democracy, for the species of life seeking for sociality. That is true sociality(eusociality).

True sociality is a term that defines sociality often seen in groups such as ants and bees. The division of roles for maintaining society reflects an evolutionary form that extends to differences in the body and its functions with genetic fixation. In many cases, reproduction is left to a small number of queens, and the average female is smaller than the queen and is infertile, and plays its role in work and fighting.
If the definition is loosely considered, not only ants and bees, but also stink bugs, aphids, beetles, spiders, spider mites, etc., exhibit true sociality. In some species of aphids, the larvae (developed in the front two pairs of legs) that have been tasked with attacking natural enemies have the fate of dying before they reach the second instar, that is, without becoming adults.
In addition, true sociality is also recognized in some species of Alpheus Brevicristatus that collectively live on coral reefs, and further, mammals are also found to have true sociality. These are the naked mole rat and the damara land mole rat. The naked mole rat is a rodent-free rat with a length of about 10 cm, and lives in a group by digging a tunnel in the ground in Ethiopia and Kenya. Similar to ants and bees, they are differentiated into queen rats and working rats in which the reproductive organs do not develop.
Let us also refer to a colony where individuals are differentiated morphologically and functionally into aggregates. In plants, it is found in diatoms, and in animals, it is found in spiders and jellyfish. This is also considered to be one result of the true social orientation of the direction.

Now, let’s return to the main subject. Humankind is also a species with social characteristics. In the future, it is considered that society will become more efficient and increasingly sophisticated division of roles will be required. If efficiency is the first goal, true sociality is strongly required. However, there are many points that do not correspond to freedom, equality, and democracy.
The morphological and functional differentiation between men and women has already been given, but what should we do in the future as a social role? I wonder if fertility caste can occur due to generations of overworked or oversported women’s groups. How should we balance the inconsistent contradiction of competition and cooperation? What should we think about the social roles and treatment as to groups that are humanely, intelligently, technically, and physically excellent and groups that are vaguely imitating the others without definite thinking ? What should we do to separate socially vulnerable people who have to be saved from ethical viewpoint and lazy people who are bringing harm to society?

It is also necessary to look at society from the following perspectives. In the case of the naked mouse, the working rat does not envy the queen or dissatisfy herself with her circumstances. Everything remains instinctive. In the case of human beings, they are jealous and dissatisfied because their consciousness has evolved. In fact,  such negative emotions are hidden behind noble ideas of freedom,equality and democracy, needless to say communism. It gives one hint in answering the question of what is happiness.

When searching for the direction in which human society should go, it is interesting to think from two perspectives: freedom, equality, democracy and true sociality.

一体感 Sense of Unity

唯物論では、非物質である普遍的な法則・論理・概念・イメージ・記憶・感情など(それらに関連する力も含めて)は、全て物質の絡みから生み出されるものと考えます。これに対し、筆者は、宇宙を二分して、物質宇宙と非物質宇宙とに分け、我々が通常考える宇宙、即ち、物質宇宙は単独で存在しているのではなく、非物質宇宙の高い次元から来る前述の普遍的な法則や力がベースとなって、成り立っていると考えます。現代的な言い方をすれば、物質宇宙は、非物質宇宙の或る領域が光速で物質として投影されたもので(それ故、時間と空間の枠を持つ)、生物の感覚器官や脳(これも投影された物質だが、非物質である心との接点を持つ)を通して現実感が与えられる壮大な仮想現実ということになります。

この説に従えば、心は、投影された肉体を、人が自動車を運転するように、操作しているのです。肉体と自動車との違いは、一体感の違いです。心と自己の肉体との一体感は、出生時から本能によって完全なものに成っています。そして、肉体が滅んだ後には、心は、非物質宇宙に戻り、仮想現実を生きた意識を熟成させ、高次元(時間と空間に制限されない)にある元の意識状態に戻ります。仮想現実に完全な一体感を持って生きている間は、高次元にある意識は認識できません。そして、この様な仕組みによって、心は、何度も、異なる環境で、異なる肉体を生きることができるのです。所謂、輪廻転生です。

心は、物質宇宙からの刺激を受けると、無時間で、非物質宇宙から価値や意味を伴う感情(感覚)を取り込みます。何を取り込むかは、大部分が、本能として、紐付けられていますが、下等生物程、その比率は高くなります。高等生物である人間は、多少なりとも、意識して、この本能の紐付けをコントロールすることができますが、現進化段階では、共食い衝動(例えば、戦争)すら完全には制御できない状況です。勿論、本能の紐付けには、生物にとって、必要不可欠なものもあれば、進化のために更に強化すべきものもあります。

人間にとって、生存本能や生殖本能は、他の生物と同様に、必要不可欠です。この為、この物質宇宙の中で、切磋琢磨して、自己を強化・成長させる必要があります。競争は必要ですし、自衛も必要になります。しかし、無制限に、他者や自然に打ち勝てば良いというものではありません。なぜなら、我々は、人類の一員、全宇宙のパーツだからです。我々は、個的に、より優秀、且つ、より強力にならなければなりませんが、同時に、我々の母体である人類全体、宇宙全体の調和と繁栄も大切にしなければなりません。周辺の草花を枯らした大地で、自分だけの花を咲かすことはできないのです。

ここで、前述の一体感について、もう少し考えてみましょう。一体感は非物質宇宙から取り込む価値や意味を伴う感情(感覚)の一つですが、これには、様々な質と強度があります。人工知能やロボット工学を駆使して作った義手や義足を上手に使えるようになると、脳は、それらに対し、自己の肉体と略同様の反応を示すことが分かってきました。心に一体感が取り込まれていることを示しています。これ程の一体感ではありませんが、スポーツで使う用具なども熟達すると自己の手足の様に感じられることがあります。母親と乳児の一体感もあります。家族との一体感、友人達との一体感、地域住民としての一体感、同国民としての一体感などもあります。それでは、この一体感を、人類としての一体感、地球・宇宙の仲間としての一体感まで、強度を上げて、広げることはできないでしょうか。

自己を大切にしなければ、生きてはいけない。他者を、そして、自然環境を、大切にしなければ、人類は生き延びることができない。このバランス問題の解決策のキーワードは一体感です。一体感は愛の感情とも密接な関係があります。

In materialism, all non-material universal laws, logics, concepts, images, memories, emotions (including the power associated with them) and this kind of forces are all considered to come from the entanglement of materials. On the other hand, I divide the universe into two parts, the material universe and the non-material universe, and the universe that we usually think of, that is, the material universe does not exist alone, but together with the higher dimension of the non-material universe. I think that  the material universe is based on the above-mentioned universal laws and forces that come from the non-material universe. In a modern way, the material universe is a region of the non-material universe projected as matter at the speed of light (hence the frame of time and space), and the sensory organs of the organism and the brain (those are also  projected matter, but they have contact with the mind, which is non-material) give a sense of reality (magnificent virtual reality created through the sensory organs by the above-mentioned universal laws and forces ).

According to this theory, the mind manipulates the projected body as if a person were driving a car. The difference between the body and the car is the difference in unity. The sense of unity between the mind and one’s body is perfected by instinct from birth. Then, after the body is destroyed, the mind returns to its original state of consciousness in a higher dimension (not limited to time and space, the non-material universe) by maturing its virtual reality conciousness. While living in its virtual reality with a complete sense of unity, the consciousness in the higher dimensions cannot be recognized by the mind. And by such a mechanism, the mind can live different bodies repeatedly in different environments. This is the so-called reincarnation.

When the mind receives a stimulus from the material universe, it takes in emotions (senses) of value and meaning from the non-material universe in a timeless manner. Most of what is taken in is linked as an instinct, but its ratio is higher in lower organisms. Human beings, which are higher organisms, are somewhat consciously able to control the binding of this instinct. But, at this stage of evolution, we cannot overcome even the cannibalism (e.g. war). The binding of this instinct is not necessarily bad. On the contrary, there are some instinct bindings that are indispensable to living things, and some of them should be strengthened for further evolution.

For humans, survival instinct and reproductive instinct are as essential as any other organism. For this reason, it is necessary to work hard in this material universe to strengthen and grow ourselves. Competition is required, and self-defense is also required. However, there is limit to what you can do to overcome others and nature. Because we are a member of humankind, parts of the entire universe. We must be personally superior and stronger, but at the same time, we must cherish the harmony and prosperity of our entire body, humanity and the universe as a whole. You cannot bloom your own flower in the earth where the surrounding flowers have withered.

Now, let’s think a little more about the above-mentioned sense of unity. Oneness is one of the emotions (senses) of value and meaning taken from the non-material universe, but it has various qualities and strengths. When it becomes possible to use artificial hands and artificial legs that are made using artificial intelligence and robotics, the brain responds to them in almost the same way as its own body. It shows that a sense of unity is incorporated in the mind. Although it’s not as solid as this, some tools may feel like your limbs when you become proficient in sports equipment. There is also a sense of unity between the mother and the baby. There is also a sense of unity with the family, a sense of unity with friends, a sense of unity as a local resident, and a sense of unity as a national. Then, isn’t it possible to increase and expand this sense of unity to the sense of unity as humankind and the sense of unity as a member of the earth and the universe?

You cannot live unless you value yourself. Human beings cannot survive unless we value others and the natural environment. The key word for the solution to this balance problem is a sense of unity. Oneness is also closely related to the feeling of love.

人を呪わば穴二つ(作用反作用の法則)

人を呪わば穴二つ、「他人を呪い殺そうとすれば、その他人の墓穴に加えて自分の墓穴も用意する必要がある」というこの格言は唯物論に浸りきった大多数の現代人の心には余り響いていないようです。

ここで筆者は自然宇宙という言葉を使いますが、その定義は、物質宇宙と非物質宇宙を包含する全体宇宙を意味します。実は、物質宇宙は単独で存在しているのではなく、非物質宇宙の高い次元から来る力や法則がベースとなって、成り立っているのです。(この考えは、唯物論とは相容れません。唯物論では、これらの力は物質が生み出していると考えています。)筆者の考えに従えば、物理法則や化学法則も自然宇宙を構成する因果の法則の中の物質部分に関わる部分なのです。

我々は、学校で物理の時間に、作用反作用の法則を習いました。ボートに乗って岸壁を押せば、反作用でボートは岸壁から押されて離れます。あれと同じことが、心の世界にも、人間関係にも、存在するのです。従って、他人を非難すれば、回り回って、自分も非難されることになり、他人に悪意を向ければ、回り回って、自分にも、悪意が向けられるのです。

この法則を、頭ではなく、感覚や感情で理解できれば、他人を喜ばせたり、皆と仲良くすることが、自己の限られた視点からの善悪判断より、大切であることが分かるようになります。

筆者は、無宗教ですが、自然宇宙は、人間が想像することさえできない程優れた、超知的設計創造者が作り上げたもの、又は、その様な意志を持った生命エネルギーそのものであると考えています。人類は、人間にとって全体的には理解不可能な因果の循環の一部分だけを物理法則や化学法則として発見し、それを物質文明の構築に利用しているのです。自然宇宙には、科学の対象領域を超えた非物質の次元が存在しています。DNAの見事な配列は、物質が成り行きで偶然作り上げたものではありません。

この様な視点から、現代のメディアとそれに携わる人々、その報道に振り回されて妬み半分の正義心から見知らぬ他人まで非難する人々を見ていると、何か空恐ろしい気がします。

植物にも意志や感情はある

森や林の中を散歩していると色々なことに気付く。昔の人や田舎に住んでいる人なら当たり前のことかも知れないものが、不自然な都会暮らしやステレオ・タイプのマス・メディアにすっかり慣れきってしまった筆者には新鮮に見える。
今年の春・初夏(2018年)は、なぜか、ここ、南房総の植物の生育速度が例年に比べ総じて速い。そして、よく繁茂している。何かの前兆であろうか。
それは、さて置き、こんなことに気付いた。
つる植物があちこちの木に絡み付いている。よく見ると、絡み付いている木から2メートルも3メートルも離れたところから地面を這ってそこにやって来ている。「植物に脳はあったかな、目に相当する感覚器官はどこにあるのだろう」などと唯物論(脳が意志や感情を生み出すと説く)にかなり毒されている筆者の頭は考える。その状況には、明らかに、つる植物の意志を感じさせるものがあるからだ。偶然だけで(風の影響で?)、これだけ多くのつる植物がお目当ての木に辿り着ける筈がない。
動物とはちょっと違った形ではあろうが、「植物にも状況を知覚する力がある、意志や感情もある」と確信したのである。

近くの人々・遠くの人々・地球

世界人口は、現在、70億を突破し、このまま順調に行けば、21世紀末には、100億を超えると予想される。この限られた地球上に、これだけの数の人間が生活するという点でも問題はあるが、ここでは、身の回りに居る近くの人々と直接会うことのない遠い人々に対する優先順位付けを中心に考えてみたい。

近くの人々は、多くても、遠くの人々の0.00001%程度、人によっては、0.000001%程度である。これだけ限られた人々であるから、相争うことは愚の骨頂、大切にしなければならない。遠くの人々よりも優先順位が高いのは、人間として、当然である。近くの人々と仲良く楽しく暮らすことが、何より一番、人生の幸せである。マス・メディアなどを通して出来上がる(一方通行の)近くの人々は、これより、遠い関係にあることを知らなくてはいけない。親・兄弟を低く見て有名人に憧れる若者、育てられた故郷を忘れて都会の人々に憧れる若者は、悪いとは言わないが、余り美しくはない。

だが、ここで、気付かなければならないことがある。思い余って、近くの人々の利益のために遠くの人々を害すれば、廻り回って近くの人々を害することになるということだ。自己の利益のために他者を害すれば、廻り回って自己を害することになるのと同じだ。具体例を一つ挙げれば、どんな状況下であろうとも、戦争は絶対にいけないという話である。自然宇宙を支配する因果の仕組みには、厳然たる作用・反作用の法則が含まれている。

全ては、バランスの問題である。近くの人々を優先しながらも全体の共存共栄を考えなければならない。人類は、一つの集合動物であり、個々の人間はそのパーツなのだ。全体を破壊すれば、そのパーツもやがて破壊される。

考えを更に拡げてみよう。地球は、一つの集合動物であり、個々の人間はそのパーツなのだ。人間の活動は、常に、自然との共生を念頭に置きながら、行われなければならない。お金(経済・産業)のために自然の循環を次々と破壊すれば、そのパーツである人間もやがて破壊される。

イルカとチンパンジー

イルカとチンパンジーはどちらが優れているのか。この質問には、様々な視点からの意味と価値があって、一概に答えることはできない。

チンパンジーは自己と他者・外界を厳しく分別・意識して生きている。自己や自己の所属する小さなグループを最優先して、他者と競争し、それに打ち勝つ能力を進化させてきた。愛の感情や他者を思いやる気持ちが全くない訳ではないが、他のグループと縄張り争いをして、場合によっては、相手の子供を引き裂いて食べてしまうこともある。お腹が空けば、仲間の食物を奪ったりもする。この方向での進化の最先端には、チンパンジーとゲノム配列がほんの僅かしか違わない人類がいる。人類もこの種の競争に打ち勝つため、知能を高めて、他者・外界を自己の都合に合わせて改変する力を進化させた。今や、自然の仕組み・実態の発見(科学)とその応用(技術)は、この意味に於いて、人類を他の生物とは次元の違うステージに引き上げたのである。

イルカは、当然のことながら、生存本能を備えており、生きるための競争はするが、それよりも、他者・外界との一体感を意識する能力を高め、他者・外界と喜びを共有するフレンドリーな感性を進化させてきた。イルカは、遊び好きで、好奇心旺盛、知能もそれなりに高い。見知らぬものを恐れて敵視するのではなく、安全と見抜けば、好奇心から、接触してくる。仲間の子供たちにも愛情を注ぎ、仲間と食物を分け合って、喜びを共にすることができるのだ。

チンパンジー型の能力だけでは、もう、人類は、この地球上で生き残ることはできない。物理的に巨大な力を持ってしまったからだ。バランス良く、イルカ型の能力を進化させなければならない。

どうすれば良いのか。筆者の仮説する「集合記憶感情伝達・創造循環・本能化・進化の仕組み」(別項参照のこと)に注目して欲しい。より多くの人々が、世代を重ねて、意識的にでも(建前からし始めたとしても)、他者と喜びを共有する体験を、積み上げれば、それで良いのだ(このためには、戦争のない世界、より良い社会を構築する必要がある)。やがて、前述の仕組みが動きだして、他者・外界との一体感を本能的に意識することのできる心の進化が人類全体に訪れるのである。ここまで進化すれば、もう、本音と建前を使い分ける必要がなくなる。

二種類の老人

世の中には、二種類の老人がいる。「ご機嫌な老人」と「ご機嫌斜めの老人」である。「穏やかな秋の日差しに心を和ませる老人」と「濡れ落ち葉を実感し悲哀に暮れる老人」と言ってもよい。

前者は、世の中で競争し、協調し、数々の経験を重ねた結果、他者や外界の様々な視点や立場を感情面で理解できるように成長した。顕在領域に於いて、或いは、潜在領域に於いても、自己と他者の繋がり、自己と外界の繋がりを実感している。即ち、自我意識の拡大が生じ、他者や外界に対し、その程度や質に違いはあるとしても、何らかの一体感を持っているのである。

これに対し、後者は、世の中の厳しい競争の中で数々の経験を重ね、その結果、狭い自我意識に閉じ籠り、他者や外界を自己から分離し続けたのだ。老人になった時、他者や外界との繋がりを実感できなければ、他者に対する批判が厳しいだけの能力の低下した濡れ落ち葉になってしまう。

因みに、近年、「子供の世話になりたくない、子供に迷惑を掛けたくない」などと言う、他人行儀の歳を取った親が増えている。自分が親孝行しなかった裏返しかも知れない。しかし、これが、時間と愛情を掛けて子供を育てる余裕のない、従って、子供との一体感など生まれようのない、忙し過ぎるお金に支配された世の中を象徴しているのであれば、とても悲しい。

二種類の嘘

「事実と異なることを、故意に人に話すこと」を嘘と定義するなら、嘘には二つの種類がある。一つは、人をおとしめて自己の利益を図るためのもので、悪い嘘である。もう一つは、人を喜ばせ元気にするためのもので、良い嘘である。
良い嘘は、世の中では嘘と言わないかも知れないが、これらは人間社会を豊かにする大切なものである。逆の言い方をすれば、「何でも、真実を告げればよい」という考えでは、人間社会は成り立たないということだ。挨拶で、「お元気ですね」という代わりに、真実を尊重して、「老けましたね」などと言う人は、どこか狂っている。人間は、無意識に、心が、感情が、合理性や論理性に優先して生きている。思いやりが、故意に、事実の表現を歪めることもある。しかし、これは、倫理性に劣るわけでもなく、論理性に欠けるわけでもない。
物質万能主義や合理主義に慣らされると、この辺りの微妙なバランスが分からなくなってくる。インターネット上の悪意情報は、嘘も真実も含めて問題外としよう。今、問題とするのは、善意と公共性を前提とするマス・メディアに、この点での勘違い(分かってやっている?)が多く見られることだ。支配層による「言論の自由圧迫」は許されるものではない。だが、マス・メディアは、倫理的側面を考慮して、自発的な報道の抑制が常に必要なのだ。例えば、それが事実であれば、報道された者やその親族の悲しみを無視して、ニュースに取り上げてよいものだろうか。そのニュースが、ミーハーたちの単なる興味を掻き立てるだけのものであれば、尚更だ。それが視聴率を上げる目的であれば最悪だ。例えば、犯罪ニュースにしても、その表現は慎重に為されなければならない。社会に対する一種の警報のつもりでも、本音が興味本位の報道であれば、犯罪の模倣を招く伝染媒体となるだけである。

恋愛の自由

人間とは、時に天使の心と繋がり、時に動物的本能に衝き動かされる、このような進化の途上にある生き物である。

「多くの哺乳類のオスは、自己の子孫を残すため、交尾対象のメスが子連れの場合、本能的に、まず、その子を殺そうとする」ことが知られている。

人間の場合、「子連れ女性の恋愛の自由を奪おう」などとは言わないが、ここに課題があることも事実である。長い目で人生を見ると、不幸の種がここに存在していることがある。マス・メディアで、事件として、報道されることも多い。

外見だけで判断してはいけない。天使のような男性は、それほど多くはいないのである(天使のような男性と巡り合って、幸せな人生を送る子連れの再婚女性もいるが)。

日本人の美徳

言葉というものは、本来、多様な解釈が成り立つものなのだ。

正直、真面目、勤勉・・・
大義、正義・・・
世のため、人のために尽くす・・・

日本という国に於いて、戦前・戦中、これらの言葉は、支配層によって、無知な人々を操るために悪用された。
だから、戦後、これらの言葉は、その力を低下させてしまった。

そして、これらの言葉が、本来、持っている素晴らしい意味と価値を理解できない、場合によっては侮蔑さえする、日本人が増えてしまったのである。

言葉というものは、その場、その環境で、同じ言葉でも使われ方が違う(意味・ニュアンスが異なる)ということを知っていれば、決して怖いものではない。

現在でも、海外での日本人への好評判は、上述の言葉が象徴している美徳から来ている。

理想を語れば・・・

心が笑えば、体も笑う。体が笑えば、心も笑う。

心と体の間には、先天的に、循環ルート(心→体→心→体・・・)が存在し、それは、あらゆる面で、微妙な感情・感覚を絡めて、自律的に作動しているのだ。

そうであれば、多くの人々が、日々、体を使って(感覚器官を媒介にして)、理想を語れば、より多くの人々の心に理想のイメージが自律的に湧き上がり、より多くの人々が理想を実現しようと思うだろう。

多くの人々が、理想を語り続け、現実とのギャップを乗り越えるための長い時間に耐えることができれば(寛容さを持てば)、理想は、やがて、この世にも、実現すると信じたい。

善意には善意を、では、悪意には・・・

論語の言葉に、「善意には善意で応え、悪意には理性で応えよ」というものがある。

現代の先進国社会は、物と便利さ、言い換えれば、お金にすっかり支配されてしまった。そこでは、愛や倫理がその力を失い掛けている。そして、お金持ちや有名人に対する嫉妬心が生み出す悪意が、メディアを媒介として渦巻いているのだ(歪んだ社会ルールがまかり通っていることに対しては、正義の声を上げるべきだが)。今では、小さな個人でも、SNSを通じて、容易に、悪意ある情報を社会にばら撒くことができる。詐欺グループは力の衰えた老人を狙い撃ちにする。独り住まいの老人や女性はより賢くならなければ生きていけない。社会の歪みに対し個人的で視野狭小な怒りを爆発させるテロリストは、これからも、増加するだろう。

一人ひとりが、日々、努力しよう。
善意には善意で応え、悪意にはその意図を見抜く理性を磨いて対応しよう。

昨今、悪意を恐れる余り善意に対し善意で応えられない人々が増えているのも悲しい。

未完成のナショナリスト

ナショナリズムの最小版は、自己本位主義だ。自己を大切にすることは、基本中の基本であり、大切なことである。だが、自己と他者は、あの世に於いて同じ根から生じていることを理解しないと、自己破滅に陥る。同じことが、家族中心主義や仲間優先主義にも言える。地域優先主義にも国家優先主義にも当てはまる。即ち、ナショナリズムは、他者と同根であることを深く実感することで完成形となるのである。別の言い方をすれば、「未完成のナショナリズムは、自己崩壊に向かう矛盾を内包している」ということになる。今、原野に一本の植物が葉を茂らせ花を咲かす季節を待つ。この花を咲かせようとして、周りの植物を除草剤で全滅させるとする。この植物の周りは、草木一本生えない不毛地帯となる。この植物はどうなるだろうか。

自己本位主義は、皆から嫌われ、社会から高い評価を得ていない。だが、自己を大切にすることは、重要なことで、誰でもそうしている。だから、「他人も、自分と同じように、自分自身を大切にしている」ということを実感できないと嫌われるのだ。この意味をよく理解して欲しい。
家族中心主義はどうだろう。例えば、運動会で他人の迷惑を顧みず、運動場に入って我が子の写真を取りまくる父親は美しいのだろうか。家族を愛するその姿は美しいが、「他人も同じように家族を愛し、子供の運動会を楽しみにしている」ことが見えない、その視野の狭さは、稚拙としか言いようがない。
自国を愛することは美しい。我が郷土を愛し、我が家族を愛することは美しい。だが「他国民も、同じように、自分の国を愛し、自分の郷土を愛し、自分の家族を愛している」ことが実感できなければ、美しくないどころか、危険である。

「世の中に幾億万の母あれど、我が母親に、優れる母なし」という歌がある。これがどう読めるかによって、人間の大きさは変わってくる。そして、その人間が乗り越えなければならない課題も変わってくるのだ。未完成のナショナリストは、自分の母親だけが特別な存在で、自分の母親だけが世界一だと素朴に読む。それは、それで美しい。だが、その背景に、自分は、特別な存在だという稚拙な思い込みがある。
完成したナショナリストは、「この作者は、普遍的な人間性と一体化した自分を実感して、その上で、改めて、自分の母親を至上のものとして詠っている」と読む。普遍的な母親の愛の本質に触れることで、この歌は、逆に、幾億万の人々のエネルギーを持って、心に迫ってくる。幾億万の母親の様々な愛と、その愛それぞれを至上のものと感じる幾億万の人々の姿が、大きなスケールで心に浮き上がってくる。

未完成のナショナリストは、支配層に利用され易い。政治的野心が利用するものの一つとして、「人種・民族・宗教・文化の違い」がある。他国の人々を本当には知らない、その弱点を突かれて、不安、恐怖、憎悪、侮蔑心、敵愾心が煽られる。よく知っていれば涙を流して共感するかもしれない敵国の兵士に、お互い、弾丸を撃ち込む。完成したナショナリストであれば、敵は人間でないことを知っている。人間を破壊しようとする感情が敵であることを知っているのだ。同じ根を持つ仲間を破壊すれば、自分も枯れてしまう。

21世紀初頭の世界的大問題として、移民や難民の受け入れ問題が浮上している。異文化、異なる価値基準を持った人々の受け入れは、様々な社会的摩擦を引き起こす。特に、受け入れ国の下層に位置する人々は、受け入れられた人々との競争により、大きな社会的・経済的打撃を受けるのだ。この事実を軽視してはいけない。しかし、これらをよく見てみると、元々、受け入れ国に存在する社会・経済ルールの歪みがベースになっているものが多いのだ。例えば、元々ある劣悪な住宅事情とその地域格差、元々ある低賃金労働とその労働環境などに起因するものが多い。社会・経済ルールの歪みを是正することは、こうした打撃を和らげる働きにも繋がるのである。
当然のことではあるが、移民や難民の受け入れ負担は、国民、皆が平等に引き受けなければならない。同じ根を持つ人類の兄弟を救うことは、長い目で見れば、必ず自分たちの社会を救うことになるからである。だが、性急・不備な受け入れはいけない。社会的な混乱を引き起こす。受け入れの理念を明示し、その方向に向かって、時間を掛けて、できることから一つずつやっていくしかない。
考えてみれば、現生人類は、その発生以来、移民や難民と同様に流れ流れて、世界中に拡がった。その間、未完成のナショナリスト同士による激しい争いがあったことも事実だ。多くの血が流された。しかし、結果としては、血が混ざり合って今日の繁栄に漕ぎ着けたのである。ちなみに、日本人は、人類学的に見て、この混ざり合いの良い見本である。異なる文化、異なる血を持つ者たちが同化して日本民族を作り上げたのだ。同じ血を引く近親交配だけでは、劣性遺伝が現れて、衰退するばかりだ。文化面でも、同様に、異質性の導入が必要である。
大きな視野に立てば、「仲間を大切にする」ということは、「他者を受け入れる」ということでもある。仲間が大事だからといって、その仲間とばかり付き合っていれば、やがて自滅するからだ。異なる文化を持つ者たちと交わってこそ、世の中は進化して持続的な繁栄が生まれる。人間はそのように出来ている。

未完成のナショナリストとは、自分自身をよく理解できていないナショナリストのことを言う。他の世界を理解することで自分の世界が理解でき、自分の世界を良くすることができるのである。

戦争の実情

現代の戦争とは、建前としては、敵の不正義を制裁するとしてお互いが武力行使することである。だが、その実情は、国の一部支配層が、優越欲、支配欲、名誉欲、権威欲、金銭欲、物欲などを満たすことを目的として、又、相手国の人々をよく知らないことから生じる恐怖、不安、不信、憎悪、嫌悪、軽蔑などが引き起こす一般民衆の集団破壊感情が原因になって、戦争は始まるのだ。
本当の敵は相手の国民ではなく、このような感情なのだが、これを正しく理解するには感情面での進化、例えば、チンパンジー的本能からの脱却など、が必要である。戦争は、こうした感情をベースとする社会的雰囲気が出来上がると、極めて小さな小競り合いや事件から始まる。そして、一旦始まると、後戻りは難しく、拡大方向に向かうことが多い。

敵国制裁がうまくいかずに長期の耐久戦に陥ったり、逆に、敵国に攻め込まれたりすると、戦争は、その本質を露わにする。戦争の本当の敵は人間なのだ。戦争に支配された感情は、敵国の人間を思うように破壊できなければ、代わりに、自国の人間の破壊に向かう。我が国の先の大戦の実態を直視して欲しい。
お国のために負傷した下級兵士は、足手纏いとして射殺された。仲間の兵士に人間的に同情すれば、上官から体が動かなくなるまで殴られた。経験の浅い若い兵士は、訓練の手間を省くために肉弾として利用された。沖縄では、上陸したアメリカ軍が使用するのを阻止するためと称し、自国の兵隊が一般民家を焼き払った。満州では、軍人が民間人を置き去りにした。
これが、戦争の実情だ。正義も不正義も、お国のためも、あったものではない。人間に対する恐怖、不安、不信、憎悪、嫌悪、軽蔑などの感情が、理性を超えて渦巻いている。

戦争に勝つための唯一の方法は、戦争をなくすことだ。敵は何なのかを正確に見極めなければならない。敵は人間ではなく、人間の心に湧き上がる戦争に支配された感情である。この感情に勝つためには、相手国の人々が、実は、自国の人々と同根であること、親を愛し子を愛する人間であること、を理解するところまで、お互いに、知り合わなければならない。

幸せが感じられるのは

幸せが感じられるのは

人が持続的な幸せ感を持つためには、
1)物質的な豊かさと利便性に恵まれていること
2)健康であること
3)人間関係に恵まれていること
4)自然を含めて自分を取り囲む環境が快適であること
等が、或る程度、確保されていなければならない。

だが、当然のことながら、ここで言う「或る程度」は人其々であり、「その或る程度」を確保できなければ、人は幸せを感じることができない。
人並み以上のレベルで上記1)2)3)4)を確保していても、自分の期待する程度がそれよりずっと高ければ、その人は、幸せどころか、苦しみと不満の毎日を過ごすことになる。

お釈迦様は、「欲望を捨てろ」と言う。欲望が苦の源であることを見抜いているからだ。
ここまで悟りを開くのは、普通の現代人には無理があるので、これを多少歪めて翻訳すれば、「自分の人生に対する期待度を低減せよ」ということになる。

人が持続的な幸せ感を持つためには、自分が既に確保している1)2)3)4)のレベルまでこれらに対する期待の程度を下げるか、自分が期待している程度まで1)2)3)4)を確保しなければならない。
どちらも、其々、異なる意味で難しい。
だが、昔の人と比べれば、現代人は多くの1)を確保しているのに、昔の人以上に貪欲に1)を欲しがっている。この点については、お釈迦様の言うことに耳を傾けなければならない。
3)4)については、1)を欲しがるあまり、昔の人が確保していたレベル以下に落ち込んでいる人が多い。2)についても、心の面まで考慮した場合、昔の人以下かも知れない。

筆者は、多くの老人から「歳を取ってからの方が幸せを感じられる」という話をよく聞かされてきた。自分が年寄りの仲間入りをして、この話の意味がよく分かるようになった。人は、健全に歳を取ると、自然の摂理によって、自分の人生に対する期待度が低減するようになっている。

歪んだルール

「小さなものは見え易いが、大きなものは見え難い」という言葉を知っているだろうか。スーパーで、1円2円の価格差に一喜一憂し、マンション購入で、数百万円、いや、一千万円を超える損をしても気付かない人は多い。大き過ぎて見えないのだ。

スポーツ選手は、一生懸命、技を磨き、体力を養い、チャンピオンを目指す。そのことは素晴らしいのだが、ルールを変えれば、チャンピオンがチャンピオンではなくなる。国を代表して競い合うスポーツでは、ルールを支配するものが、大きくて見え難いことを悪用して、自国有利のためにルールを変更することがある。

全ての競争にルールは必要だが、そのルールは、特定の国、特定の組織、特定の階層、特定の人によって支配されてはいけない。特定の国、特定の組織、特定の階層、特定の人に有利なルールが生まれる恐れがあるからだ。しかし、現実はどうだろうか。スポーツはおろか、社会競争や経済競争に於いても、不公正なルール作りとその結果としての歪んだルールが蔓延しているではないか。

ベスト・バランス

うまくやろうと思わなければ、うまくいかない。
勝とうと思わなければ、勝てない。
愛されようと思わなければ、愛されない。
だが、思いすぎると、心は重くなり塞がってしまう。
物事の成就には、人知を超えた因果の手助けが必要なのだ。
その手助けは思いの隙間から入って来る。
だから、隙間が残る程度に、軽さが残る程度に、思わなければいけない。

大切な人

大切な人とは、何かをしてくれる人ではない。何かを持っている人でもない。何かができる人でもない。人間的な触れ合いができ、近くにいるだけで、自分にとって意味と価値のある大切な感情を心に湧き上がらせてくれる人のことだ。穏やかな安心感、元気で明るい気分、喜び溢れる楽しい気持ち、いつもの雰囲気など、自分にとって好ましい心の状態を無意識の内に生み出してくれる人である。

心の顕在領域に湧き上がるはっきりとした感情は、すぐ分かるが、潜在領域に静かにやって来る感情は、顕在化させることが難しい。これは、把握し難く意識的なコントロールが難しい分、人に与える影響が大きい。この種の感情にも、人を左右する重要な意味と価値が存在しているということだ。このような目で見れば、「空気のような人こそ大切な人」であることが分かる。

自分にとって大切な人は、自分との関係性の中で生まれるものだ。全人格的な触れ合いの中で大切な人となる。大切な人は、「どの人にとっても大切な人」ということも考えられるが、自分にとって大切な人は、普通、他人にとっては、「ただの人」である。この意味で、テレビに現れるスターは大切な人にはなり得ない。

「自分にとって都合の良いことをしてくれる人が大切な人だ」と言う人もいる。しかし、人間にとっての意味と価値は心の中で決定される。自分にとって都合の良いことをしてくれても、気付かず、或いは、理解できず、心に何も湧き起こらなければ意味を為さない。

人間の能力特性


或る心理学者の仮説によると、人間の能力特性は次の九つに分類される。

Naturalistic・・・自然や生物の実態・本質を感知・理解する
Musical・・・音、音程、諧調、リズム、音質などを感知・理解する
Logical-mathematical・・・論理的・数学的な
Existential・・・物や事の本質・存在を不思議がり探求する、哲学的な
Interpersonal・・・他者の感情や真意を感知・理解する
Bodily-kinesthetic・・・頭脳と体を連動させる
Linguistic・・・表現する適切な言葉を見つけ出す
Intra-personal・・・心の中にある感情・感覚・欲求を感知・理解する
Spacial・・・立体的に空間と形を視覚化する

この九つに分類される能力特性を、それぞれ独立したものと考える人もいるが、筆者の心の研究の視点に立てば、これらは、すべて、どこかで、重なり合い、融合している。人間の総体的な能力を見る場合、その特性の濃淡を見易くするための便宜的な基準と捉えれば、これはとても分かり易い。人間は、一つの能力が優れているからといって、すべてが優れている訳ではない。或る特性に於いては天才であっても、別の特性では平均以下ということはよくあることだ。

若者が政治をする

若者が政治をする方が良い。「若者を中心とする政党が政権を担って政治を行う」という意味だ。但し、若者は、経験不足で視野が狭い。単純論理に走り易い。目先の善悪や正誤にこだわって争う感情も強い。だから、それを補うために、老人の経験や知恵とのコラボレーションが大前提となる。善良で良識のある老人は、死を意識して社会に良いものを残そうとする。歳を取って、更に、欲張る者もいるが、その数は少ない。

多くのしがらみを社会で作ってしまった働き盛りの大人たちが、政権を握っていては、人間的或いは組織的な癒着から生じる歪みをどうやっても払拭できない。明治以来の体質が、今も尚、その底を流れる日本の官僚体制の改革は、極めて難しい。社会との様々なしがらみを持つ大人たちでは、この現実社会の行政実務を牛耳る官僚たちに真っ向から対抗することはできない。又、お金や票に直結する大組織とのしがらみを持つ大人たちでは、利益誘導型政治から抜け出すこともできない。働き盛りの大人たちには、働くことに集中して貰おう。

未来の政府は、偉そうに一般民衆を統治するものではなく、一般民衆が構成する社会の調整機構として、即ち、公僕として、機能するものである。若者よ!老人から、その経験と知恵を借りて、君たちの「これからの社会」は、君たちが自分たちで作れ。大人にお願いばかりしても、また、不平不満を漏らしても、無駄だ。若い君たちの方が、社会とのしがらみが少ない分、公正・公平な社会を作ることができるのだ。

好きなことをして生きられたら・・・

好きなことをして生きられたら素晴らしい人生だ。
だから、仕事でも、趣味でも、そう、努力するのは、とても良いことだ。
けれど、何が好きなのかは、やってみなければ分からないこともある。
誰を好きになるのかは、付き合ってみなければ分からないこともある。
初めからの食わず嫌いは、人生をつまらなくする。
そして、好きなことをして素晴らしい人生を送るのには、一つだけ条件がある。
それは、自分が好きですることを周りの人達も喜んでいるということだ。

新しく優れたものは・・・

新しく優れたものは、それが世に出た時、社会から理解されることは極めて少ない。
もし、直ぐに高い評価を受けるならば、そう評価する人達が、既に、多数、社会に存在することになり、「それは新しいものではない」ということになる。

既成の知識層やマス・メディアが、理解しようとしない、注目することのないところで、 日々、地道に、努力を積み重ねている「名も無き人々」の土台作りによって、真の社会進歩は支えられているのだ。

幸せ見つけた!002

今の東京は、こんなに人がいるのに、孤独で寂しい。
みんな焼けてしまった戦後、バラックの中で、汚れた子供たちがごろ寝していた。
家の子供も近所の子供も、分け隔てなく、大人は接していた。
貧しくても、寂しくはない。
共に生きる仲間がいるからだ。
あの頃は、家族の定義が、もっと広く、おおらかだったように思う。

幸せ見つけた!001

樹木のある交差点で、孫娘を自転車に乗せたおばあさんが信号待ちをしている。
夕食のための買い物に行くのだろう。
おばあさんと孫娘は、何することなく、ただ楽しそうに、顔を見合わせ笑っている。
秋の夕陽がまだ明るい街角、黄金色の光の中に、小さな幸せを発見した。

風が吹けば桶屋が儲かる

「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺がある。
これを、「因果の車は人知の及ばぬ領域でも廻っている」と読む。

これに絡めて、昨今、気になることがある。社会に不幸な人が続出するのではないかという心配だ。それは、マス・メディアやSNSの吹かす風である。妬み半分の正義を振り回して、寄って集って、特定の個人を非難中傷する現象である。個人に対する非難中傷は程々にして、「どうすれば、そのような不祥事をなくす社会的な仕組みが出来上がるのか」に焦点を絞る方が良い。視聴率は上がらないかも知れないが、そこに、本来のマス・メディアやSNSの存在意義があるのだ。

そればかりではない。このような風に乗って他人を非難中傷する人々には、やがて、作用反作用の法則を積んだ因果の車が廻って来る。幸せな人生を送るための第一歩は、他人を不幸にしないことなのである。

大きな根を持つ植物

今、この野原に、赤、白、黄色の花を咲かせる植物が繁茂している。

この植物には、光を好むもの、日陰を好むもの、乾燥を好むもの、湿気を好むものがある。日照りの時には、光を好むものと乾燥を好むものが活躍し、雨続きの時には、日陰を好むものと湿気を好むものが活躍する。こうして、頑張って、今日の繁茂を達成したのだ。だから、好みはみんな違ってよい。

また、三色の花は仲良く一緒に咲き誇り、そよ風に揺れている。自分と色が違うからといって、他の色の花を嫌ったりすることは決してないのだ。

この植物は、地面の下にある大きな一つの根に、自分達すべてが繋がっていることを知っている。

マモン

皆さんもご存知の通り、マモンとは、旧約聖書に登場するお金・財・富の神様である。本来、人間は本物の神様のしもべである筈なのだが、その時代、放っておくと、マモンのしもべに成るものが続出した。そこで、神様は警告する。「私とマモンの両方に仕えることはできない」と。

現代を生きる我々に対し、もう一度、この言葉が発せられるかも知れない。そもそも、マモンは、「人間の欲望と仲間への信用」から生まれた、人間(集団全体)に仕えるためのパワーである。お金に着目して簡単に言ってしまえば、「人間は、本来、お金の主人公」ということだ。お金は、人間によって、大いに利用されなければならない。

お金は、人間社会を回り歩くことで、そのパワーを発揮する。日本では、昔、その性質を見抜いて、お金をお足と呼んでいた。お足を使って豊かになることを知っている人達は大商人と呼ばれた。

だが、欲が過ぎて、社会全体を顧みず、自分達だけにお金を留めて置こうとすると、立場は逆転して、「人間がマモンの奴隷になる」という法則がある。お金は、程々に、有効に、使わなければならない。この法則にも目を向けなければならない時代が来ている。

人類絶滅の日は・・・

 物質面だけで生命を捉えた場合、人類絶滅の日は、必ずやって来る。「そんな先のことを心配するな」と言う人が多いかも知れない。しかし、それは意外と近くにまで迫っている。

 太陽系の3番目の惑星、地球、人類をはじめ数多くの生物が棲む天体、年齢は46億歳。表面は窒素と酸素を主成分とする大気に包まれ、水がある。衛星は一つ、月である。現在、72億の人類が生息する。

 この地球に生命が誕生したのは、今から約38億年前、生命は、現在に至るまで、進化と部分絶滅を繰り返している。大量絶滅と言われる出来事は、過去5回あったとされ、有名なものが、約6千6百万年前の恐竜絶滅である。メキシコのユカタン半島付近に落ちた直径10キロ程の小天体が、1億7千万年の長期にわたって地球を支配していた恐竜を絶滅させた。この時、同時に、地球上の約80%の生命が死滅したと推定される。

 恐ろしいのは、これからの話である。専門研究家がコンピュータに大量のデータを投入して、地球上の生物絶滅速度を計算した。その結果、生物絶滅の最速時期は「現代」と算出されたのである。過去5回の大量絶滅を超して。我々の時間感覚では実感できないものの、地球時間で見れば、これまで地球が経験したことのない速さで、現在、地球上の生物が消滅している。

 もう、皆さんもお分かりの通り、これは、人類の仕業である。利便性の高い、物質的な豊かさを享受する現代文明のもう一つの側面は、地球に過大なダメージを与えるものなのだ。多くの生物が消滅してしまった地球上で、人類だけが生き残れる筈はない。人類の叡智が試される時代に入っている。

理系・文系

 理系・文系という概念は、日本人が発明したのかもしれない。他国の人に比べて、直ぐ口にする。この世界が、理系と文系で、明確に2分されている様な印象を与える。理系事象と文系事象は、実際には、絡み合っていて、明確に分離できない。或る前提条件の範囲内に理系事象を閉じ込めて、初めて、この分離は成立するのである。

 「私は理系だから文系のことは理解できません。」、「私は文系だから理系のことは理解できません。」などと言うのは、決して、建設的な発言ではない。「私は、知的に偏っています。多視点に立つ努力を放棄し、思考範囲を狭めています。」と言っている様に聞こえる。 

 理系・文系を超えた分厚い教養基盤の上にこそ、理系であれ、文系であれ、美しい専門の花が咲くのである。

誘蛾灯

誘蛾灯の青い光に幻惑されて、今夜も、沢山の虫が飛来する。
虫は、この世には決して存在しない青い光で包まれた理想の世界に憧れて飛来するのだ。
この青い光を感覚器官が捉えると、虫は本能的に青い光で包まれた理想の世界からやって来る感覚に満たされる。
憧れの感情に乗って、溶け込んで一つになるために、飛んで来るのだ。

何故、そんなことが分かる?

私は、子供の頃から、お盆の回り灯籠を見て知っている。
回り灯籠の中からやって来る青い透明な光の中に理想の世界を感じるのだ。
青い透明な世界が、清らかに、爽やかに、安らかに、存在している。
不思議な感覚に満たされる。
憧れの感情に乗って、溶け込んで一つになるために、青い光で包まれた理想の世界に飛び込みたくなる。

個と集団

個人主義は美しい・・・醜い。
家族主義は美しい・・・醜い。
同胞主義は美しい・・・醜い。
会社主義は美しい・・・醜い。
地域主義は美しい・・・醜い。
民族主義は美しい・・・醜い。
国家主義は美しい・・・醜い。
世界主義は美しい・・・醜い。

視点・立場が異なると、価値は逆転する。
バランスが悪いと、醜くなる。

競争と協調

 我々は子供の頃、「一生懸命やって、学業成績を上げろ、運動会で一等賞を取れ」などと言われた。それで、頑張って競争し勝ってみたら、今度は、「協調精神が足りない」などと注意される。人間は、レイモンド・チャンドラーの小説で探偵フィリップ・マーロウが言ったように、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」のかも知れない。

 切磋琢磨し競争しなければ、個人としても社会としても、進歩・向上がない。だから、競争は必要である。しかし、協調がなければ、その進歩や向上は、個的なものにとどまり、社会的な相乗効果が期待できないばかりか、社会的な累積も難しい。さらに、秩序は失われ、競争は激化し、争いが蔓延し、少数の勝者のみが生き残る。結果として社会は衰退する。

 我々は、自分を狙う犯罪者に優しくするのは難しいが、相撲で勝負した相手には、侮蔑ではなく礼を持って接する方が良い。山の柿の実は、自分たちが食べる分だけ取ったなら、後は、鳥のために残す気配りが必要である。

 時代や環境、自分の周囲の状況によって、刻々と微妙に変化する競争と協調の一見矛盾する均衡点を瞬時に適格に探り当てるバランス感覚は、人間にとって極めて重要な能力である。これは、学校の授業で教えてくれるものではない。先天的な差異はあるが、子供の頃に自然の中で遊び、友達や兄弟と小競り合いをして、無意識の内に身に付けるものである。

 歳を取って振り返ると、次のようなことも言える。子供の頃や若い頃は、視野狭小で、勝つために、がむしゃらに競争した。結果として、強さと能力に磨きは掛かるが、それと共に、相手の気持ちも分かるようになる。自分の痛みは相手にもある。歳を取るに連れ、自我意識は拡大し、協調の精神が自発的に生まれて来る。

長幼の序

 お祖父さん・お父さん・お兄さん・僕の順序、お祖母さん・お母さん・お姉さん・私の順序は、人間がまだ猿だった頃から、とても大切なものだった。隣の小父さんも、学校の先輩も、年少の僕にとっては、目上の人だ。昔の人は、人が社会で幸せに暮らすための知恵として、この感情・感覚から生まれる秩序を「長幼の序」と言って、大切にしてきたのである。

 誤解を避けるために付け加えると、民主主義の世の中では、「長幼の序」は、人間の価値順位に繋がるものでもなければ、命令を下すための権利順位に繋がるものでもない。この意味では、当然のことながら、年長者、年少者、共に、皆、平等である。だが、「年少者が年長者に敬意を払うことを知らない社会が平等な社会だ」と考えるのは大きな間違いである。

 「長幼の序」が示す意味・価値(或る種の感情・感覚が支える)を文化として共有すれば、社会は、この領域に於いて、混沌から秩序に向かうことができる。この点が重要なのだ。親と子が友達の関係にあれば、社会は混乱する。親が子を、子として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないし、子が親を、親として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないのである。

 平等ということを考える上で、「差別」と「区別」は異なったものである。所謂、「差別」が不平等を生む源泉であると定義すれば、「区別」は平等な社会にも必要なものとして定義できる。男女の区別、役割の区別などを考えれば、直ぐに分かる。男性が子供を産めないから不平等だという人はいないし、学校の先生が生徒を教育するのは不平等だという人もいない。

 「長幼」には、自然が人間に与える役割の区別がある。

野生のニワトリ・鶏舎のニワトリ

 野生のニワトリは、自分の力で餌を取らなければ生きていけない。うっかりしていると、他の動物の餌食になってしまう。雛にとっては、特に、その危険性は高い。卵は蛇が狙いに来る。いつも、気を使い、体を使って生きている。生きるのは本当に大変だ。だから、高い木の枝に舞い上がったり、少しの距離なら飛ぶこともできるのだ。

 一方、鶏舎のニワトリは、自分の力で餌を取りに行く必要はない。毎日、決まった時間が来ると、餌と水が与えられるから、あまり、気は使わないし、体も使わない。天敵の襲撃を恐れることもない。便利で安全、物質的に恵まれている。ただ、ずらっと並んだお仕着せのケースに入って生活しなければならない。そして、労働の成果として産む玉子は、人間に提供することになるのだ。年老いて玉子を提供できなくなったメンドリは、価値の無いものと見做され、処分される。

 現代の文化文明を顧みて、皆さんがニワトリだったら、どちらの生活を選ぶのだろうか。

集中の危険

 ここに、大きなクヌギの木がある。樹液が大量に噴き出て、味も香りも申し分ない。林のカブトムシたちの間で、噂はたちまち広まった。或る夏の夜に、カブトムシたちは、雄雌一ペアーを除いて、その木に一斉に集合した。だが、運の悪いことに、集まったカブトムシたちは、その時、丁度、待ち構えていた子供たちに一網打尽に捕獲されてしまったのだ。残ったペアーは言った。「だから、言ったのに」。もう、遅かった。集中の危険である。

 都市に過密状態で住むこと、満員電車に乗ること、渋滞の道路で運転すること、混雑する人気の娯楽施設や商業施設に行くこと、などを象徴している。有名で味も香りも良い樹液に、一斉に集まる人たちへの警告である。
 現代人の集中する悪癖は、大袈裟ではなく、このままでは、いずれ集団を破滅へと導く。

 人の生きる意義は、人真似をして生きることではないし、人が欲しいと言うものを欲しがって生きることでもない。人々の個性や事情は、皆、それぞれ違っている。生まれも、育ちも、違う。これからも違った人生を歩むに違いない。受けた情報は、自分自身で考え、自分自身で判断し、自分自身に合わせて処理しなければならない。そうすることで、初めて、自由意志の行使が可能になり、生きている意義が生まれるのである。

科学と倫理の大前提

 科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)、そして、倫理感情を支える絶対感・真理感は、共に、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にある。
  しかし、それでも、科学や数学は、そのような前提の上に、客観的で確固たる体系を築くことができた。これをベースにした様々な技術の累積は、今や、物質宇宙に大きな影響を与える水準にまで達している。一方、倫理と言えば、3000年前のギリシャと比べて、殆ど進化していない。このギャップが、現代の文化文明を危険な道へと導いているのである。

 この危険な道から脱却するためには、人間の心に湧き上がる倫理感情に更なる力を与え得る新しい哲学が必要となる。その昔に作られた宗教や哲学は、多くの点で、科学や数学の客観的で確固たる体系の力によって修正されなければ、現代に通用しないのだ。
 宗教に潜む独善主義(例えば、教祖への盲信や原典主義)は、明らかに、時代遅れである。古くからある哲学の諸説も、科学的・論理的な矛盾があれば修正しなければならない。また、人間の能力では客観的な証明のできない、科学の対象範囲を超えた前提は、仮説として謙虚に提示されなければならない。

 一方、科学や数学も謙虚でなければならないのである。なぜなら、前述の通り、科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)は、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にあるからだ。宇宙の全てが、科学や数学的手法で解明されることはない。人間の能力を超えた領域を土台にして科学や数学が成り立っていることを忘れてしまっては、便利で物質的に豊かな現代文明も永続きはしないのである。

循環するグー・チョキ・パア

 昔から人間社会を動かす三つの大きな力についての話がある。一つ目は知力である。理性、論理、知識などを駆使し、分析、統合、整理して物事を考え、理解し、判断する力である。象徴的に学者と言う。二番目は軍事力、象徴的に軍人と言う。三番目はお金、象徴的に商人と言う。学者はグー、軍人はチョキ、商人はパアに例えられる。即ち、優劣はジャンケン通りということだ。

 事実、学者は商人に弱く(お金がなければ研究ができない)、軍人に強い(戦の大義を論理付け、また戦略を立てる)。軍人は学者に弱く、商人に強い(商売のベースである平和や秩序を破壊し、金品を奪い取る)。商人は軍人に弱く、学者に強い。そして、人間社会は、その優劣通りに循環するという。

 現在は、お金が一番のパアの時代であり、チョキの時代に向かいつつある。チョキの時代になって既存の秩序と富は破壊され、人々は壮絶な苦しみと悲しみを味わう。やがて、グーが台頭し、社会秩序と平和の再構築が始まる。グーの時代になると、パアが力を発揮して貧富の差が拡大する。パアによる不平等な平和社会が構築されて、一般民衆は、お金に支配され、自然を破壊し、職業家畜となっていく。社会に不満が充満し、内戦やテロが勃発する。チョキがこれら全てを破壊する。このような循環論であるが、確かに説得力がある。

 だが、これが、永遠に循環する訳ではない。「循環を保つバランスはいつか崩れ、次のバランスに向かう」というのが因果の法則である。

 チョキの時代には、そのバランスが大きく崩れ、水爆によって人類は絶滅するかも知れない。パアの時代には、自然破壊が度を越して、想像を超える大きな天変地異がやって来るかも知れない。進化して、新しい循環に移らなければならない。

オオクワガタ生態観察会

2017年7月26日(水)、南房総市・富山地域づくり協議会「フラット」との共催で、森のてーぶる・オオクワガタ生態観察会が開催されました。

毎年、この時期に開かれる地域恒例のイベントです。
今にも雨の降りそうな天候のせいか、例年に比べて参加者の数は少なめですが、大人と子供を合わせて、約60人が集合しました。

80ミリを超える日本オオクワガタ、台湾シェンクリング、インドアンタエウスなどの生態観察が行われ、その後、参加した子供たち全員に、オオクワガタ、ヒラタクワガタ、コクワガタ、カブトムシ、コガネムシが、くじ引きやじゃんけんで、プレゼントされました。

子供たちのはじける笑顔に触れて、地域の明るい未来を感じました。

愛してもその悪を知り・・・

愛してもその悪を知り、憎みてもその善を知る。

愛憎、好き嫌い、広い意味では、嫉妬、妬み、僻み等から、物事の善悪を判断すべきではないということである。

近頃、マス・メディア、インターネットに限らず、よく見られるものは、このような感情が正義を装って為される他者批判である。「悪いものは悪いとはっきり言うべき」だが、人を批判する時には、このことに注意しなければならない。

作用・反作用の物理法則は、心の世界を含めた因果の法則から生まれたものである。言い方を換えれば、心の世界にも作用・反作用の法則が働いているということだ。あなたが幸せを求めるのならば、この法則に気付かなければならない。

 

チームワークの成果

 外部環境からの影響を除外すれば、チームワークの成果は、チーム全体の力によって決まる。チーム全体の力は、チーム構成員一人ひとりの力の合成であるが、その合成に関わる構成員一人ひとりの相互関係性によって影響を受ける。

 全体を良くするためには、当然、一人ひとりが自己を磨かなければならない。だが、構成員である或る個人が力を付けることで、構成員である他者の力を歪めるような関係があれば、単純に、個々人が己の力を付ければ、全体が良くなるというものではない。全体として最大の出力を生み出す構成員一人ひとりの相互関係性が重要である。分かり易い言葉で表現すれば、そこに、調和や協調がなければならない。

  個人は、国家にも置き換えられる。世界が最大の出力を生み出すためには、それぞれの国家が、単純に、力を付ければ良いというものではない。そこに、バランスの取れた調和や協調がなければならないということである。

人は見たいものしか・・・

人は見たいものしか見えない。

人は聞きたいものしか聞こえない。

略、無意識の状態で、人は、自分の現実世界をこのように限定して、小さくしていく。

人類進化のためには、このことに気付く個人が、率先して、この無意識状態に意識の光を当てて、まだ知らぬ多様性の海に船出しなければならない。

中真似と外真似、本物と偽物 Contents-mimic and Surface-mimic, Real Thing and Fake

 人は、誰でも、人真似をして育つ。そして、人真似には二種類ある。一つ目は、人の持っている何かに共感し、それを真似るものである。この場合は、中身に価値を見つけ出して、それを真似ているのである。これを中真似と呼ぼう。二つ目は、世の中で流行っているもの、有名人がやっているもの、その外形を真似るものである。中身そのものはどうでもよい。皆がやっているから、ただ、それを真似したいのである。これを外真似と呼ぼう。同じ人真似でも、この二つは根本的に違う。

 外から見てこの両者は、区別が付き難い。例えば、サッカーをやりたい少年がいる。この少年は、本当にサッカーが好きなのか、仲間が、皆、サッカーをやっているからやりたいのか、この区別は簡単には付かない。そもそも、半々ということもある。やりたい本人も分からないことが多い。

 外真似も馬鹿にしてはならない。やっている内に、本当に、中身に価値を見つけ出す者もいるからである。「石の上にも三年」、自意識過剰になって、自分探しをする若者には、これを勧める。

 一つ目、即ち、中真似は本物を作る。二つ目、即ち、外真似は偽物を作る。この意味で、嫌がるものを押し付ければ、偽物になるだけだ。世の中には、偽物の人間が圧倒的に多い。親や教育者、そして、社会環境に責任がある。子供を本物にしたい親は、この二種類の人真似について理解を深めて欲しい。世の中に本物が増えれば、世の中は進化し、世の中はさらに面白くなる。

Anyone grows by imitating the others. And there are two types of imitation. The first is to empathize with something that a person has and imitate it. In this case, it finds value in the contents and imitates it. Let’s call this “contents-mimic”. The second is to imitate on the surface what is popular in the world, what celebrities are doing. In this case, the contents themselves do not matter. Everyone is doing it, so I just want to copy it. Let’s call this “surface-mimic”. These two are fundamentally different.

From the outside, it is difficult to distinguish between the two. For example, there is a boy who wants to play soccer. It’s not easy to tell whether the boy really likes soccer or he wants to do it because of his friends’ influence. In the first place, it may be half and half. They often don’t know who they want to be.

Don’t make a fool of “surface-mimic”. It is because there are many people who really find value in the contents while doing it. “Three years on the stone,” I recommend this aphorism to young people who are self-conscious and looking for themselves.

The first one, namely, “contents-mimic” makes the real thing. The second one, namely, “surface-mimic” makes a fake. In this sense, if you force your chldren to do what they dislike, it will make a fake. There are many fake people in the world. Parents, educators, and social environment are responsible to this state. Parents who want their children to be the real thing should deepen their understanding of these two types of imitation. If there are more of the real thing, the world will evolve and the world will become more interesting.

仕事と労働

 ここでは、「仕事は、好きで、天職と思って、自発的な形で働くこと」、「労働は、経済的理由、義務や強制などによって、自発的ではない形で働くこと」と定義しよう。この両者を混同させてはならない。社会的な外見から見れば同じように見えても、人の心にとっては根本的に違うものなのだから。但し、続けているうちに、自分にとっての意味と価値をその内に見出して、労働が仕事に変わることもよくある。そもそも、心の中で、初めから、仕事と労働が半々ということもある。

 現代に於いて、一番問題になるのは、お金のために嫌な労働をしているのだが、本人がそのことを自覚していない場合である。労働の中身そのものは、それほど嫌ではないが、その周囲の環境が慢性的なストレスを与える場合(過密居住、満員電車通勤、慢性騒音、空気汚染など)は、意識することがとても難しい。また、賃金の高さ、楽さ加減、勤め先の知名度などを基準に、自分に合わない、欝病を誘発するような労働に従事する人間も増えている。

 ここで、世間一般で言う労働法というものを考えてみよう。すると、ここで定義した労働という視点に立った考えだけが見えて来る。そこには、仕事という視点はない。仕事も労働と見做してこの法律は出来上がっているのだ。だが、人間が行う経済的活動には、明らかに、仕事と労働が含まれていて、それを同じに取り扱えば、社会的な矛盾が生じるのは必然である。その区別は微妙で難しいが、この区別をしっかり考えた上での労働法でなければ、目的である労働者保護は、却って、仕事をする人々、労働をする人々を困らせるものとなる。

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言葉には限界がある

 色々な角度・視点から何回も繰り返して物事を見ないと、正しい判断はできない。周囲の環境との絡みをできるだけ多く把握しないと、物事の判断を誤る。しかも、周囲の環境は刻々と変化する。だから、一つの固定した視点からの物言いは、別の視点から見た時、おかしなものになることが多いのである。
例えば、「本当のことを言わないのは悪いことだ」という言い方がある。或る特定の前提に於いて、それは正しい。別の前提に於いて、それは誤りである。窃盗犯が本当のことを言わないのは悪いことだが、知り合いの老人に、挨拶で、「随分老けましたね」などと本当のことを言うのは良くないことだ。

 ギリシャの哲学者、ゼノンのものとされる有名な話に「アキレスと亀」がある。「俊足のアキレスは鈍足の亀に無限に近づきはするが決して追いつくことはできない」という話である。
・・・アキレスが亀を追いかけ、亀のいた地点に到着すると、亀はそれなりにその地点より先に進んでいる。次に、アキレスは、亀が進んだその地点に向かうが、アキレスがその地点に到着した時、亀はそれなりにまた先に進んでいる。このような繰り返しが永遠に続くだけで、アキレスは決して亀に追い着くことはできない。・・・
だが、この話は、アキレスが亀に追いつく寸前までの時間と距離を次々と無限に細分割する前提になっているのだ。

 前提条件によっては、「1+1=2」も、おかしなものになる。砂利一杯のバケツと砂一杯のバケツを合わせると、バケツ二杯にはならない。

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不動明王の怒りと観音の悲しみ

 怒りについて話そう。「自分の立場しか視野に入らず、人間を怒りの対象として、破壊しようとするもの」と「他者の立場にも立ち、不公正や不公平を含めて悪を怒りの対象とし、それを破壊しようとするもの」の二つがある。
  後者の怒りを「不動明王の怒り」と呼ぶ。両者の違いを見分けるのは、極めて簡単である。前者は、人間に対する怒りであるから、自分自身の心身も破壊する。嫌な後味が残る。いつも怒っていると、自分自身の胃腸や十二指腸が破壊される。後者の怒りは、悪に対する怒りであり、嫌な後味はない。自我の拡大を伴う大きな愛の感情に支えられて晴れやかな安定感が残る。悪を実行した人間に対しても、愛の感情を注いでいるのである。罪を憎んで人を憎まず、悪を破壊し人を労わる。

ノウマクサンマンダバザラダンゼンダマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン
不動明王真言

  悲しみについても、同じことが言える。「自分のことだけの悲しみ」と「その自分の悲しみを乗り越えて悟った他者の悲しみ、即ち、他者の立場に立った悲しみ」の二つがある。 後者の悲しみを「観音の悲しみ」と言う。自我の拡大を伴う大きな愛の感情の中に同情や共感がある。

オンバザラタラマキリク
千手観音真言

GΛIΛGΛIΛ

泣きと笑い

 感情が高まり、緊張やストレスが或る限界に達すると、それを無意識的に、且つ、一気に崩す仕組みが、心と体に連携して作られている。

 喜びと悲しみはコインの表裏である。喜びと悲しみが限界に達すれば、涙が出る。恐怖の場合には、失禁が生じる。ちなみに、オオクワガタの幼虫にも恐怖の感情が湧き上がる。オオクワガタの飼育をした人の多くは気付いているだろうが、菌糸瓶への入れ替え時に、急に箸で摘まんだりすると、恐怖の余り脱糞する。
この種の感情は、本能として、小さな脳の昆虫にも湧き上がるのだ。「感情とは何か、どこに存在するのか」を考える絶好のきっかけとなる。「お前はオオクワガタではないのに、なぜ、その感情が分かるのか」と言う人がいる。その質問に対する答えは、「他人の感情を直感するのと同じだ」と言うしかない。
創造主・自然の力は素晴らしいもので、この脱糞は、敵をびっくりさせる効果もある。また、少しでも体をスリムにして穴に逃げ込み易くする効果もある。オオクワガタに馴染みのない人は、蝉の小便を思い出して欲しい。

 少し、複雑なものが笑いである。基本的には、前述の仕組みと同じだ。緊張の消失に伴う安心感や満足感の中での笑い、緊張を保っていた認識に突然のずれが生じ一気に緊張が解けて安心した時の笑いなどがある。前者は、赤ん坊の笑いやホッとした時に出る柔らかな笑いだ。後者は、ジョーク、ユーモア、ウィットなどで、高度に選別されている。謎掛け遊びの中にも潜んでいる。単なるストレス解消から、人生を楽しくするもの、人付き合いでのトラブルを避けるものまである。文化的にも、社会的にも、とても大切なものだ。
さらに、笑いは複雑である。社会的な意思表示として、意識的に作ることもある。これらには、他の感情も入り混じっている。笑って、逆に、それに相応する心の状態を作るのだ。愛想笑い、作り笑い、ネガティブなものでは、嘲笑などが考えられる。
笑いとは、体の動作と心の状態が繋がって循環運動をしているものだ。どちらが先でも構わない。笑う門には福来たる。心が笑えば、体が健康になる。体が笑えば、ストレスから解放されて、心が健やかになる。

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