ngg001 の紹介

南房総に移住、趣味は自然・社会・人間について体験すること、考えること。歳を取って、世の中に何か良いものを残そうという気持ちが強くなってきた。「若い頃の罪滅ぼしか?」等と言われます。

植物にも意志や感情はある

森や林の中を散歩していると色々なことに気付く。昔の人や田舎に住んでいる人なら当たり前のことかも知れないものが、不自然な都会暮らしやステレオ・タイプのマス・メディアにすっかり慣れきってしまった筆者には新鮮に見える。
今年の春・初夏(2018年)は、なぜか、ここ、南房総の植物の生育速度が例年に比べ総じて速い。そして、よく繁茂している。何かの前兆であろうか。
それは、さて置き、こんなことに気付いた。
つる植物があちこちの木に絡み付いている。よく見ると、絡み付いている木から2メートルも3メートルも離れたところから地面を這ってそこにやって来ている。「植物に脳はあったかな、目に相当する感覚器官はどこにあるのだろう」などと唯物論(脳が意志や感情を生み出すと説く)にかなり毒されている筆者の頭は考える。その状況には、明らかに、つる植物の意志を感じさせるものがあるからだ。偶然だけで(風の影響で?)、これだけ多くのつる植物がお目当ての木に辿り着ける筈がない。
動物とはちょっと違った形ではあろうが、「植物にも状況を知覚する力がある、意志や感情もある」と確信したのである。

近くの人々・遠くの人々・地球

世界人口は、現在、70億を突破し、このまま順調に行けば、21世紀末には、100億を超えると予想される。この限られた地球上に、これだけの数の人間が生活するという点でも問題はあるが、ここでは、身の回りに居る近くの人々と直接会うことのない遠い人々に対する優先順位付けを中心に考えてみたい。

近くの人々は、多くても、遠くの人々の0.00001%程度、人によっては、0.000001%程度である。これだけ限られた人々であるから、相争うことは愚の骨頂、大切にしなければならない。遠くの人々よりも優先順位が高いのは、人間として、当然である。近くの人々と仲良く楽しく暮らすことが、何より一番、人生の幸せである。マス・メディアなどを通して出来上がる(一方通行の)近くの人々は、これより、遠い関係にあることを知らなくてはいけない。親・兄弟を低く見て有名人に憧れる若者、育てられた故郷を忘れて都会の人々に憧れる若者は、悪いとは言わないが、余り美しくはない。

だが、ここで、気付かなければならないことがある。思い余って、近くの人々の利益のために遠くの人々を害すれば、廻り回って近くの人々を害することになるということだ。自己の利益のために他者を害すれば、廻り回って自己を害することになるのと同じだ。具体例を一つ挙げれば、どんな状況下であろうとも、戦争は絶対にいけないという話である。自然宇宙を支配する因果の仕組みには、厳然たる作用・反作用の法則が含まれている。

全ては、バランスの問題である。近くの人々を優先しながらも全体の共存共栄を考えなければならない。人類は、一つの集合動物であり、個々の人間はそのパーツなのだ。全体を破壊すれば、そのパーツもやがて破壊される。

考えを更に拡げてみよう。地球は、一つの集合動物であり、個々の人間はそのパーツなのだ。人間の活動は、常に、自然との共生を念頭に置きながら、行われなければならない。お金(経済・産業)のために自然の循環を次々と破壊すれば、そのパーツである人間もやがて破壊される。

イルカとチンパンジー

イルカとチンパンジーはどちらが優れているのか。この質問には、様々な視点からの意味と価値があって、一概に答えることはできない。

チンパンジーは自己と他者・外界を厳しく分別・意識して生きている。自己や自己の所属する小さなグループを最優先して、他者と競争し、それに打ち勝つ能力を進化させてきた。愛の感情や他者を思いやる気持ちが全くない訳ではないが、他のグループと縄張り争いをして、場合によっては、相手の子供を引き裂いて食べてしまうこともある。お腹が空けば、仲間の食物を奪ったりもする。この方向での進化の最先端には、チンパンジーとゲノム配列がほんの僅かしか違わない人類がいる。人類もこの種の競争に打ち勝つため、知能を高めて、他者・外界を自己の都合に合わせて改変する力を進化させた。今や、自然の仕組み・実態の発見(科学)とその応用(技術)は、この意味に於いて、人類を他の生物とは次元の違うステージに引き上げたのである。

イルカは、当然のことながら、生存本能を備えており、生きるための競争はするが、それよりも、他者・外界との一体感を意識する能力を高め、他者・外界と喜びを共有するフレンドリーな感性を進化させてきた。イルカは、遊び好きで、好奇心旺盛、知能もそれなりに高い。見知らぬものを恐れて敵視するのではなく、安全と見抜けば、好奇心から、接触してくる。仲間の子供たちにも愛情を注ぎ、仲間と食物を分け合って、喜びを共にすることができるのだ。

チンパンジー型の能力だけでは、もう、人類は、この地球上で生き残ることはできない。物理的に巨大な力を持ってしまったからだ。バランス良く、イルカ型の能力を進化させなければならない。

どうすれば良いのか。筆者の仮説する「集合記憶感情伝達・創造循環・本能化・進化の仕組み」(別項参照のこと)に注目して欲しい。より多くの人々が、世代を重ねて、意識的にでも(建前からし始めたとしても)、他者と喜びを共有する体験を、積み上げれば、それで良いのだ(このためには、戦争のない世界、より良い社会を構築する必要がある)。やがて、前述の仕組みが動きだして、他者・外界との一体感を本能的に意識することのできる心の進化が人類全体に訪れるのである。ここまで進化すれば、もう、本音と建前を使い分ける必要がなくなる。

二種類の老人

世の中には、二種類の老人がいる。「ご機嫌な老人」と「ご機嫌斜めの老人」である。「穏やかな秋の日差しに心を和ませる老人」と「濡れ落ち葉を実感し悲哀に暮れる老人」と言ってもよい。

前者は、世の中で競争し、協調し、数々の経験を重ねた結果、他者や外界の様々な視点や立場を感情面で理解できるように成長した。顕在領域に於いて、或いは、潜在領域に於いても、自己と他者の繋がり、自己と外界の繋がりを実感している。即ち、自我意識の拡大が生じ、他者や外界に対し、その程度や質に違いはあるとしても、何らかの一体感を持っているのである。

これに対し、後者は、世の中の厳しい競争の中で数々の経験を重ね、その結果、狭い自我意識に閉じ籠り、他者や外界を自己から分離し続けたのだ。老人になった時、他者や外界との繋がりを実感できなければ、他者に対する批判が厳しいだけの能力の低下した濡れ落ち葉になってしまう。

因みに、近年、「子供の世話になりたくない、子供に迷惑を掛けたくない」などと言う、他人行儀の歳を取った親が増えている。自分が親孝行しなかった裏返しかも知れない。しかし、これが、時間と愛情を掛けて子供を育てる余裕のない、従って、子供との一体感など生まれようのない、忙し過ぎるお金に支配された世の中を象徴しているのであれば、とても悲しい。

二種類の嘘

「事実と異なることを、故意に人に話すこと」を嘘と定義するなら、嘘には二つの種類がある。一つは、人をおとしめて自己の利益を図るためのもので、悪い嘘である。もう一つは、人を喜ばせ元気にするためのもので、良い嘘である。
良い嘘は、世の中では嘘と言わないかも知れないが、これらは人間社会を豊かにする大切なものである。逆の言い方をすれば、「何でも、真実を告げればよい」という考えでは、人間社会は成り立たないということだ。挨拶で、「お元気ですね」という代わりに、真実を尊重して、「老けましたね」などと言う人は、どこか狂っている。人間は、無意識に、心が、感情が、合理性や論理性に優先して生きている。思いやりが、故意に、事実の表現を歪めることもある。しかし、これは、倫理性に劣るわけでもなく、論理性に欠けるわけでもない。
物質万能主義や合理主義に慣らされると、この辺りの微妙なバランスが分からなくなってくる。インターネット上の悪意情報は、嘘も真実も含めて問題外としよう。今、問題とするのは、善意と公共性を前提とするマス・メディアに、この点での勘違い(分かってやっている?)が多く見られることだ。支配層による「言論の自由圧迫」は許されるものではない。だが、マス・メディアは、倫理的側面を考慮して、自発的な報道の抑制が常に必要なのだ。例えば、それが事実であれば、報道された者やその親族の悲しみを無視して、ニュースに取り上げてよいものだろうか。そのニュースが、ミーハーたちの単なる興味を掻き立てるだけのものであれば、尚更だ。それが視聴率を上げる目的であれば最悪だ。例えば、犯罪ニュースにしても、その表現は慎重に為されなければならない。社会に対する一種の警報のつもりでも、本音が興味本位の報道であれば、犯罪の模倣を招く伝染媒体となるだけである。

恋愛の自由

人間とは、時に天使の心と繋がり、時に動物的本能に衝き動かされる、このような進化の途上にある生き物である。

「多くの哺乳類のオスは、自己の子孫を残すため、交尾対象のメスが子連れの場合、本能的に、まず、その子を殺そうとする」ことが知られている。

人間の場合、「子連れ女性の恋愛の自由を奪おう」などとは言わないが、ここに課題があることも事実である。長い目で人生を見ると、不幸の種がここに存在していることがある。マス・メディアで、事件として、報道されることも多い。

外見だけで判断してはいけない。天使のような男性は、それほど多くはいないのである(天使のような男性と巡り合って、幸せな人生を送る子連れの再婚女性もいるが)。

日本人の美徳

言葉というものは、本来、多様な解釈が成り立つものなのだ。

正直、真面目、勤勉・・・
大義、正義・・・
世のため、人のために尽くす・・・

日本という国に於いて、戦前・戦中、これらの言葉は、支配層によって、無知な人々を操るために悪用された。
だから、戦後、これらの言葉は、その力を低下させてしまった。

そして、これらの言葉が、本来、持っている素晴らしい意味と価値を理解できない、場合によっては侮蔑さえする、日本人が増えてしまったのである。

言葉というものは、その場、その環境で、同じ言葉でも使われ方が違う(意味・ニュアンスが異なる)ということを知っていれば、決して怖いものではない。

現在でも、海外での日本人への好評判は、上述の言葉が象徴している美徳から来ている。

理想を語れば・・・

心が笑えば、体も笑う。体が笑えば、心も笑う。

心と体の間には、先天的に、循環ルート(心→体→心→体・・・)が存在し、それは、あらゆる面で、微妙な感情・感覚を絡めて、自律的に作動しているのだ。

そうであれば、多くの人々が、日々、体を使って(感覚器官を媒介にして)、理想を語れば、より多くの人々の心に理想のイメージが自律的に湧き上がり、より多くの人々が理想を実現しようと思うだろう。

多くの人々が、理想を語り続け、現実とのギャップを乗り越えるための長い時間に耐えることができれば(寛容さを持てば)、理想は、やがて、この世にも、実現すると信じたい。

善意には善意を、では、悪意には・・・

論語の言葉に、「善意には善意で応え、悪意には理性で応えよ」というものがある。

現代の先進国社会は、物と便利さ、言い換えれば、お金にすっかり支配されてしまった。そこでは、愛や倫理がその力を失い掛けている。そして、お金持ちや有名人に対する嫉妬心が生み出す悪意が、メディアを媒介として渦巻いているのだ(歪んだ社会ルールがまかり通っていることに対しては、正義の声を上げるべきだが)。今では、小さな個人でも、SNSを通じて、容易に、悪意ある情報を社会にばら撒くことができる。詐欺グループは力の衰えた老人を狙い撃ちにする。独り住まいの老人や女性はより賢くならなければ生きていけない。社会の歪みに対し個人的で視野狭小な怒りを爆発させるテロリストは、これからも、増加するだろう。

一人ひとりが、日々、努力しよう。
善意には善意で応え、悪意にはその意図を見抜く理性を磨いて対応しよう。

昨今、悪意を恐れる余り善意に対し善意で応えられない人々が増えているのも悲しい。

未完成のナショナリスト

ナショナリズムの最小版は、自己本位主義だ。自己を大切にすることは、基本中の基本であり、大切なことである。だが、自己と他者は、あの世に於いて同じ根から生じていることを理解しないと、自己破滅に陥る。同じことが、家族中心主義や仲間優先主義にも言える。地域優先主義にも国家優先主義にも当てはまる。即ち、ナショナリズムは、他者と同根であることを深く実感することで完成形となるのである。別の言い方をすれば、「未完成のナショナリズムは、自己崩壊に向かう矛盾を内包している」ということになる。今、原野に一本の植物が葉を茂らせ花を咲かす季節を待つ。この花を咲かせようとして、周りの植物を除草剤で全滅させるとする。この植物の周りは、草木一本生えない不毛地帯となる。この植物はどうなるだろうか。

自己本位主義は、皆から嫌われ、社会から高い評価を得ていない。だが、自己を大切にすることは、重要なことで、誰でもそうしている。だから、「他人も、自分と同じように、自分自身を大切にしている」ということを実感できないと嫌われるのだ。この意味をよく理解して欲しい。
家族中心主義はどうだろう。例えば、運動会で他人の迷惑を顧みず、運動場に入って我が子の写真を取りまくる父親は美しいのだろうか。家族を愛するその姿は美しいが、「他人も同じように家族を愛し、子供の運動会を楽しみにしている」ことが見えない、その視野の狭さは、稚拙としか言いようがない。
自国を愛することは美しい。我が郷土を愛し、我が家族を愛することは美しい。だが「他国民も、同じように、自分の国を愛し、自分の郷土を愛し、自分の家族を愛している」ことが実感できなければ、美しくないどころか、危険である。

「世の中に幾億万の母あれど、我が母親に、優れる母なし」という歌がある。これがどう読めるかによって、人間の大きさは変わってくる。そして、その人間が乗り越えなければならない課題も変わってくるのだ。未完成のナショナリストは、自分の母親だけが特別な存在で、自分の母親だけが世界一だと素朴に読む。それは、それで美しい。だが、その背景に、自分は、特別な存在だという稚拙な思い込みがある。
完成したナショナリストは、「この作者は、普遍的な人間性と一体化した自分を実感して、その上で、改めて、自分の母親を至上のものとして詠っている」と読む。普遍的な母親の愛の本質に触れることで、この歌は、逆に、幾億万の人々のエネルギーを持って、心に迫ってくる。幾億万の母親の様々な愛と、その愛それぞれを至上のものと感じる幾億万の人々の姿が、大きなスケールで心に浮き上がってくる。

未完成のナショナリストは、支配層に利用され易い。政治的野心が利用するものの一つとして、「人種・民族・宗教・文化の違い」がある。他国の人々を本当には知らない、その弱点を突かれて、不安、恐怖、憎悪、侮蔑心、敵愾心が煽られる。よく知っていれば涙を流して共感するかもしれない敵国の兵士に、お互い、弾丸を撃ち込む。完成したナショナリストであれば、敵は人間でないことを知っている。人間を破壊しようとする感情が敵であることを知っているのだ。同じ根を持つ仲間を破壊すれば、自分も枯れてしまう。

21世紀初頭の世界的大問題として、移民や難民の受け入れ問題が浮上している。異文化、異なる価値基準を持った人々の受け入れは、様々な社会的摩擦を引き起こす。特に、受け入れ国の下層に位置する人々は、受け入れられた人々との競争により、大きな社会的・経済的打撃を受けるのだ。この事実を軽視してはいけない。しかし、これらをよく見てみると、元々、受け入れ国に存在する社会・経済ルールの歪みがベースになっているものが多いのだ。例えば、元々ある劣悪な住宅事情とその地域格差、元々ある低賃金労働とその労働環境などに起因するものが多い。社会・経済ルールの歪みを是正することは、こうした打撃を和らげる働きにも繋がるのである。
当然のことではあるが、移民や難民の受け入れ負担は、国民、皆が平等に引き受けなければならない。同じ根を持つ人類の兄弟を救うことは、長い目で見れば、必ず自分たちの社会を救うことになるからである。だが、性急・不備な受け入れはいけない。社会的な混乱を引き起こす。受け入れの理念を明示し、その方向に向かって、時間を掛けて、できることから一つずつやっていくしかない。
考えてみれば、現生人類は、その発生以来、移民や難民と同様に流れ流れて、世界中に拡がった。その間、未完成のナショナリスト同士による激しい争いがあったことも事実だ。多くの血が流された。しかし、結果としては、血が混ざり合って今日の繁栄に漕ぎ着けたのである。ちなみに、日本人は、人類学的に見て、この混ざり合いの良い見本である。異なる文化、異なる血を持つ者たちが同化して日本民族を作り上げたのだ。同じ血を引く近親交配だけでは、劣性遺伝が現れて、衰退するばかりだ。文化面でも、同様に、異質性の導入が必要である。
大きな視野に立てば、「仲間を大切にする」ということは、「他者を受け入れる」ということでもある。仲間が大事だからといって、その仲間とばかり付き合っていれば、やがて自滅するからだ。異なる文化を持つ者たちと交わってこそ、世の中は進化して持続的な繁栄が生まれる。人間はそのように出来ている。

未完成のナショナリストとは、自分自身をよく理解できていないナショナリストのことを言う。他の世界を理解することで自分の世界が理解でき、自分の世界を良くすることができるのである。

戦争の実情

現代の戦争とは、建前としては、敵の不正義を制裁するとしてお互いが武力行使することである。だが、その実情は、国の一部支配層が、優越欲、支配欲、名誉欲、権威欲、金銭欲、物欲などを満たすことを目的として、又、相手国の人々をよく知らないことから生じる恐怖、不安、不信、憎悪、嫌悪、軽蔑などが引き起こす一般民衆の集団破壊感情が原因になって、戦争は始まるのだ。
本当の敵は相手の国民ではなく、このような感情なのだが、これを正しく理解するには感情面での進化、例えば、チンパンジー的本能からの脱却など、が必要である。戦争は、こうした感情をベースとする社会的雰囲気が出来上がると、極めて小さな小競り合いや事件から始まる。そして、一旦始まると、後戻りは難しく、拡大方向に向かうことが多い。

敵国制裁がうまくいかずに長期の耐久戦に陥ったり、逆に、敵国に攻め込まれたりすると、戦争は、その本質を露わにする。戦争の本当の敵は人間なのだ。戦争に支配された感情は、敵国の人間を思うように破壊できなければ、代わりに、自国の人間の破壊に向かう。我が国の先の大戦の実態を直視して欲しい。
お国のために負傷した下級兵士は、足手纏いとして射殺された。仲間の兵士に人間的に同情すれば、上官から体が動かなくなるまで殴られた。経験の浅い若い兵士は、訓練の手間を省くために肉弾として利用された。沖縄では、上陸したアメリカ軍が使用するのを阻止するためと称し、自国の兵隊が一般民家を焼き払った。満州では、軍人が民間人を置き去りにした。
これが、戦争の実情だ。正義も不正義も、お国のためも、あったものではない。人間に対する恐怖、不安、不信、憎悪、嫌悪、軽蔑などの感情が、理性を超えて渦巻いている。

戦争に勝つための唯一の方法は、戦争をなくすことだ。敵は何なのかを正確に見極めなければならない。敵は人間ではなく、人間の心に湧き上がる戦争に支配された感情である。この感情に勝つためには、相手国の人々が、実は、自国の人々と同根であること、親を愛し子を愛する人間であること、を理解するところまで、お互いに、知り合わなければならない。

幸せが感じられるのは

幸せが感じられるのは

人が持続的な幸せ感を持つためには、
1)物質的な豊かさと利便性に恵まれていること
2)健康であること
3)人間関係に恵まれていること
4)自然を含めて自分を取り囲む環境が快適であること
等が、或る程度、確保されていなければならない。

だが、当然のことながら、ここで言う「或る程度」は人其々であり、「その或る程度」を確保できなければ、人は幸せを感じることができない。
人並み以上のレベルで上記1)2)3)4)を確保していても、自分の期待する程度がそれよりずっと高ければ、その人は、幸せどころか、苦しみと不満の毎日を過ごすことになる。

お釈迦様は、「欲望を捨てろ」と言う。欲望が苦の源であることを見抜いているからだ。
ここまで悟りを開くのは、普通の現代人には無理があるので、これを多少歪めて翻訳すれば、「自分の人生に対する期待度を低減せよ」ということになる。

人が持続的な幸せ感を持つためには、自分が既に確保している1)2)3)4)のレベルまでこれらに対する期待の程度を下げるか、自分が期待している程度まで1)2)3)4)を確保しなければならない。
どちらも、其々、異なる意味で難しい。
だが、昔の人と比べれば、現代人は多くの1)を確保しているのに、昔の人以上に貪欲に1)を欲しがっている。この点については、お釈迦様の言うことに耳を傾けなければならない。
3)4)については、1)を欲しがるあまり、昔の人が確保していたレベル以下に落ち込んでいる人が多い。2)についても、心の面まで考慮した場合、昔の人以下かも知れない。

筆者は、多くの老人から「歳を取ってからの方が幸せを感じられる」という話をよく聞かされてきた。自分が年寄りの仲間入りをして、この話の意味がよく分かるようになった。人は、健全に歳を取ると、自然の摂理によって、自分の人生に対する期待度が低減するようになっている。

歪んだルール

「小さなものは見え易いが、大きなものは見え難い」という言葉を知っているだろうか。スーパーで、1円2円の価格差に一喜一憂し、マンション購入で、数百万円、いや、一千万円を超える損をしても気付かない人は多い。大き過ぎて見えないのだ。

スポーツ選手は、一生懸命、技を磨き、体力を養い、チャンピオンを目指す。そのことは素晴らしいのだが、ルールを変えれば、チャンピオンがチャンピオンではなくなる。国を代表して競い合うスポーツでは、ルールを支配するものが、大きくて見え難いことを悪用して、自国有利のためにルールを変更することがある。

全ての競争にルールは必要だが、そのルールは、特定の国、特定の組織、特定の階層、特定の人によって支配されてはいけない。特定の国、特定の組織、特定の階層、特定の人に有利なルールが生まれる恐れがあるからだ。しかし、現実はどうだろうか。スポーツはおろか、社会競争や経済競争に於いても、不公正なルール作りとその結果としての歪んだルールが蔓延しているではないか。

ベスト・バランス

うまくやろうと思わなければ、うまくいかない。
勝とうと思わなければ、勝てない。
愛されようと思わなければ、愛されない。
だが、思いすぎると、心は重くなり塞がってしまう。
物事の成就には、人知を超えた因果の手助けが必要なのだ。
その手助けは思いの隙間から入って来る。
だから、隙間が残る程度に、軽さが残る程度に、思わなければいけない。

大切な人


大切な人とは、何かをしてくれる人ではない。何かを持っている人でもない。何かができる人でもない。人間的な触れ合いができ、近くにいるだけで、自分にとって意味と価値のある大切な感情を心に湧き上がらせてくれる人のことだ。穏やかな安心感、元気で明るい気分、喜び溢れる楽しい気持ち、いつもの雰囲気など、自分にとって好ましい心の状態を無意識の内に生み出してくれる人である。

心の顕在領域に湧き上がるはっきりとした感情は、すぐ分かるが、潜在領域に静かにやって来る感情は、顕在化させることが難しい。これは、把握し難く意識的なコントロールが難しい分、人に与える影響が大きい。この種の感情にも、人を左右する重要な意味と価値が存在しているということだ。このような目で見れば、「空気のような人こそ大切な人」であることが分かる。

自分にとって大切な人は、自分との関係性の中で生まれるものだ。全人格的な触れ合いの中で大切な人となる。大切な人は、「どの人にとっても大切な人」ということも考えられるが、自分にとって大切な人は、普通、他人にとっては、「ただの人」である。この意味で、テレビに現れるスターは大切な人にはなり得ない。

「自分にとって都合の良いことをしてくれる人が大切な人だ」と言う人もいる。しかし、人間にとっての意味と価値は心の中で決定される。自分にとって都合の良いことをしてくれても、気付かず、或いは、理解できず、心に何も湧き起こらなければ意味を為さない。

人間の能力特性


或る心理学者の仮説によると、人間の能力特性は次の九つに分類される。

Naturalistic・・・自然や生物の実態・本質を感知・理解する
Musical・・・音、音程、諧調、リズム、音質などを感知・理解する
Logical-mathematical・・・論理的・数学的な
Existential・・・物や事の本質・存在を不思議がり探求する、哲学的な
Interpersonal・・・他者の感情や真意を感知・理解する
Bodily-kinesthetic・・・頭脳と体を連動させる
Linguistic・・・表現する適切な言葉を見つけ出す
Intra-personal・・・心の中にある感情・感覚・欲求を感知・理解する
Spacial・・・立体的に空間と形を視覚化する

この九つに分類される能力特性を、それぞれ独立したものと考える人もいるが、筆者の心の研究の視点に立てば、これらは、すべて、どこかで、重なり合い、融合している。人間の総体的な能力を見る場合、その特性の濃淡を見易くするための便宜的な基準と捉えれば、これはとても分かり易い。人間は、一つの能力が優れているからといって、すべてが優れている訳ではない。或る特性に於いては天才であっても、別の特性では平均以下ということはよくあることだ。

若者が政治をする

若者が政治をする方が良い。「若者を中心とする政党が政権を担って政治を行う」という意味だ。但し、若者は、経験不足で視野が狭い。単純論理に走り易い。目先の善悪や正誤にこだわって争う感情も強い。だから、それを補うために、老人の経験や知恵とのコラボレーションが大前提となる。善良で良識のある老人は、死を意識して社会に良いものを残そうとする。歳を取って、更に、欲張る者もいるが、その数は少ない。

多くのしがらみを社会で作ってしまった働き盛りの大人たちが、政権を握っていては、人間的或いは組織的な癒着から生じる歪みをどうやっても払拭できない。明治以来の体質が、今も尚、その底を流れる日本の官僚体制の改革は、極めて難しい。社会との様々なしがらみを持つ大人たちでは、この現実社会の行政実務を牛耳る官僚たちに真っ向から対抗することはできない。又、お金や票に直結する大組織とのしがらみを持つ大人たちでは、利益誘導型政治から抜け出すこともできない。働き盛りの大人たちには、働くことに集中して貰おう。

未来の政府は、偉そうに一般民衆を統治するものではなく、一般民衆が構成する社会の調整機構として、即ち、公僕として、機能するものである。若者よ!老人から、その経験と知恵を借りて、君たちの「これからの社会」は、君たちが自分たちで作れ。大人にお願いばかりしても、また、不平不満を漏らしても、無駄だ。若い君たちの方が、社会とのしがらみが少ない分、公正・公平な社会を作ることができるのだ。

好きなことをして生きられたら・・・

好きなことをして生きられたら素晴らしい人生だ。
だから、仕事でも、趣味でも、そう、努力するのは、とても良いことだ。
けれど、何が好きなのかは、やってみなければ分からないこともある。
誰を好きになるのかは、付き合ってみなければ分からないこともある。
初めからの食わず嫌いは、人生をつまらなくする。
そして、好きなことをして素晴らしい人生を送るのには、一つだけ条件がある。
それは、自分が好きですることを周りの人達も喜んでいるということだ。

新しく優れたものは・・・

新しく優れたものは、それが世に出た時、社会から理解されることは極めて少ない。
もし、直ぐに高い評価を受けるならば、そう評価する人達が、既に、多数、社会に存在することになり、「それは新しいものではない」ということになる。

既成の知識層やマス・メディアが、理解しようとしない、注目することのないところで、 日々、地道に、努力を積み重ねている「名も無き人々」の土台作りによって、真の社会進歩は支えられているのだ。

幸せ見つけた!002

今の東京は、こんなに人がいるのに、孤独で寂しい。
みんな焼けてしまった戦後、バラックの中で、汚れた子供たちがごろ寝していた。
家の子供も近所の子供も、分け隔てなく、大人は接していた。
貧しくても、寂しくはない。
共に生きる仲間がいるからだ。
あの頃は、家族の定義が、もっと広く、おおらかだったように思う。

幸せ見つけた!001

樹木のある交差点で、孫娘を自転車に乗せたおばあさんが信号待ちをしている。
夕食のための買い物に行くのだろう。
おばあさんと孫娘は、何することなく、ただ楽しそうに、顔を見合わせ笑っている。
秋の夕陽がまだ明るい街角、黄金色の光の中に、小さな幸せを発見した。

風が吹けば桶屋が儲かる

「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺がある。
これを、「因果の車は人知の及ばぬ領域でも廻っている」と読む。

これに絡めて、昨今、気になることがある。社会に不幸な人が続出するのではないかという心配だ。それは、マス・メディアやSNSの吹かす風である。妬み半分の正義を振り回して、寄って集って、特定の個人を非難中傷する現象である。個人に対する非難中傷は程々にして、「どうすれば、そのような不祥事をなくす社会的な仕組みが出来上がるのか」に焦点を絞る方が良い。視聴率は上がらないかも知れないが、そこに、本来のマス・メディアやSNSの存在意義があるのだ。

そればかりではない。このような風に乗って他人を非難中傷する人々には、やがて、作用反作用の法則を積んだ因果の車が廻って来る。幸せな人生を送るための第一歩は、他人を不幸にしないことなのである。

大きな根を持つ植物

今、この野原に、赤、白、黄色の花を咲かせる植物が繁茂している。

この植物には、光を好むもの、日陰を好むもの、乾燥を好むもの、湿気を好むものがある。日照りの時には、光を好むものと乾燥を好むものが活躍し、雨続きの時には、日陰を好むものと湿気を好むものが活躍する。こうして、頑張って、今日の繁茂を達成したのだ。だから、好みはみんな違ってよい。

また、三色の花は仲良く一緒に咲き誇り、そよ風に揺れている。自分と色が違うからといって、他の色の花を嫌ったりすることは決してないのだ。

この植物は、地面の下にある大きな一つの根に、自分達すべてが繋がっていることを知っている。

マモン

皆さんもご存知の通り、マモンとは、旧約聖書に登場するお金・財・富の神様である。本来、人間は本物の神様のしもべである筈なのだが、その時代、放っておくと、マモンのしもべに成るものが続出した。そこで、神様は警告する。「私とマモンの両方に仕えることはできない」と。

現代を生きる我々に対し、もう一度、この言葉が発せられるかも知れない。そもそも、マモンは、「人間の欲望と仲間への信用」から生まれた、人間(集団全体)に仕えるためのパワーである。お金に着目して簡単に言ってしまえば、「人間は、本来、お金の主人公」ということだ。お金は、人間によって、大いに利用されなければならない。

お金は、人間社会を回り歩くことで、そのパワーを発揮する。日本では、昔、その性質を見抜いて、お金をお足と呼んでいた。お足を使って豊かになることを知っている人達は大商人と呼ばれた。

だが、欲が過ぎて、社会全体を顧みず、自分達だけにお金を留めて置こうとすると、立場は逆転して、「人間がマモンの奴隷になる」という法則がある。お金は、程々に、有効に、使わなければならない。この法則にも目を向けなければならない時代が来ている。

人類絶滅の日は・・・

 物質面だけで生命を捉えた場合、人類絶滅の日は、必ずやって来る。「そんな先のことを心配するな」と言う人が多いかも知れない。しかし、それは意外と近くにまで迫っている。

 太陽系の3番目の惑星、地球、人類をはじめ数多くの生物が棲む天体、年齢は46億歳。表面は窒素と酸素を主成分とする大気に包まれ、水がある。衛星は一つ、月である。現在、72億の人類が生息する。

 この地球に生命が誕生したのは、今から約38億年前、生命は、現在に至るまで、進化と部分絶滅を繰り返している。大量絶滅と言われる出来事は、過去5回あったとされ、有名なものが、約6千6百万年前の恐竜絶滅である。メキシコのユカタン半島付近に落ちた直径10キロ程の小天体が、1億7千万年の長期にわたって地球を支配していた恐竜を絶滅させた。この時、同時に、地球上の約80%の生命が死滅したと推定される。

 恐ろしいのは、これからの話である。専門研究家がコンピュータに大量のデータを投入して、地球上の生物絶滅速度を計算した。その結果、生物絶滅の最速時期は「現代」と算出されたのである。過去5回の大量絶滅を超して。我々の時間感覚では実感できないものの、地球時間で見れば、これまで地球が経験したことのない速さで、現在、地球上の生物が消滅している。

 もう、皆さんもお分かりの通り、これは、人類の仕業である。利便性の高い、物質的な豊かさを享受する現代文明のもう一つの側面は、地球に過大なダメージを与えるものなのだ。多くの生物が消滅してしまった地球上で、人類だけが生き残れる筈はない。人類の叡智が試される時代に入っている。

理系・文系

 理系・文系という概念は、日本人が発明したのかもしれない。他国の人に比べて、直ぐ口にする。この世界が、理系と文系で、明確に2分されている様な印象を与える。理系事象と文系事象は、実際には、絡み合っていて、明確に分離できない。或る前提条件の範囲内に理系事象を閉じ込めて、初めて、この分離は成立するのである。

 「私は理系だから文系のことは理解できません。」、「私は文系だから理系のことは理解できません。」などと言うのは、決して、建設的な発言ではない。「私は、知的に偏っています。多視点に立つ努力を放棄し、思考範囲を狭めています。」と言っている様に聞こえる。 

 理系・文系を超えた分厚い教養基盤の上にこそ、理系であれ、文系であれ、美しい専門の花が咲くのである。

誘蛾灯

誘蛾灯の青い光に幻惑されて、今夜も、沢山の虫が飛来する。
虫は、この世には決して存在しない青い光で包まれた理想の世界に憧れて飛来するのだ。
この青い光を感覚器官が捉えると、虫は本能的に青い光で包まれた理想の世界からやって来る感覚に満たされる。
憧れの感情に乗って、溶け込んで一つになるために、飛んで来るのだ。

何故、そんなことが分かる?

私は、子供の頃から、お盆の回り灯籠を見て知っている。
回り灯籠の中からやって来る青い透明な光の中に理想の世界を感じるのだ。
青い透明な世界が、清らかに、爽やかに、安らかに、存在している。
不思議な感覚に満たされる。
憧れの感情に乗って、溶け込んで一つになるために、青い光で包まれた理想の世界に飛び込みたくなる。

個と集団

個人主義は美しい・・・醜い。
家族主義は美しい・・・醜い。
同胞主義は美しい・・・醜い。
会社主義は美しい・・・醜い。
地域主義は美しい・・・醜い。
民族主義は美しい・・・醜い。
国家主義は美しい・・・醜い。
世界主義は美しい・・・醜い。

視点・立場が異なると、価値は逆転する。
バランスが悪いと、醜くなる。

競争と協調

 我々は子供の頃、「一生懸命やって、学業成績を上げろ、運動会で一等賞を取れ」などと言われた。それで、頑張って競争し勝ってみたら、今度は、「協調精神が足りない」などと注意される。人間は、レイモンド・チャンドラーの小説で探偵フィリップ・マーロウが言ったように、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」のかも知れない。

 切磋琢磨し競争しなければ、個人としても社会としても、進歩・向上がない。だから、競争は必要である。しかし、協調がなければ、その進歩や向上は、個的なものにとどまり、社会的な相乗効果が期待できないばかりか、社会的な累積も難しい。さらに、秩序は失われ、競争は激化し、争いが蔓延し、少数の勝者のみが生き残る。結果として社会は衰退する。

 我々は、自分を狙う犯罪者に優しくするのは難しいが、相撲で勝負した相手には、侮蔑ではなく礼を持って接する方が良い。山の柿の実は、自分たちが食べる分だけ取ったなら、後は、鳥のために残す気配りが必要である。

 時代や環境、自分の周囲の状況によって、刻々と微妙に変化する競争と協調の一見矛盾する均衡点を瞬時に適格に探り当てるバランス感覚は、人間にとって極めて重要な能力である。これは、学校の授業で教えてくれるものではない。先天的な差異はあるが、子供の頃に自然の中で遊び、友達や兄弟と小競り合いをして、無意識の内に身に付けるものである。

 歳を取って振り返ると、次のようなことも言える。子供の頃や若い頃は、視野狭小で、勝つために、がむしゃらに競争した。結果として、強さと能力に磨きは掛かるが、それと共に、相手の気持ちも分かるようになる。自分の痛みは相手にもある。歳を取るに連れ、自我意識は拡大し、協調の精神が自発的に生まれて来る。

長幼の序

 お祖父さん・お父さん・お兄さん・僕の順序、お祖母さん・お母さん・お姉さん・私の順序は、人間がまだ猿だった頃から、とても大切なものだった。隣の小父さんも、学校の先輩も、年少の僕にとっては、目上の人だ。昔の人は、人が社会で幸せに暮らすための知恵として、この感情・感覚から生まれる秩序を「長幼の序」と言って、大切にしてきたのである。

 誤解を避けるために付け加えると、民主主義の世の中では、「長幼の序」は、人間の価値順位に繋がるものでもなければ、命令を下すための権利順位に繋がるものでもない。この意味では、当然のことながら、年長者、年少者、共に、皆、平等である。だが、「年少者が年長者に敬意を払うことを知らない社会が平等な社会だ」と考えるのは大きな間違いである。

 「長幼の序」が示す意味・価値(或る種の感情・感覚が支える)を文化として共有すれば、社会は、この領域に於いて、混沌から秩序に向かうことができる。この点が重要なのだ。親と子が友達の関係にあれば、社会は混乱する。親が子を、子として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないし、子が親を、親として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないのである。

 平等ということを考える上で、「差別」と「区別」は異なったものである。所謂、「差別」が不平等を生む源泉であると定義すれば、「区別」は平等な社会にも必要なものとして定義できる。男女の区別、役割の区別などを考えれば、直ぐに分かる。男性が子供を産めないから不平等だという人はいないし、学校の先生が生徒を教育するのは不平等だという人もいない。

 「長幼」には、自然が人間に与える役割の区別がある。

野生のニワトリ・鶏舎のニワトリ

 野生のニワトリは、自分の力で餌を取らなければ生きていけない。うっかりしていると、他の動物の餌食になってしまう。雛にとっては、特に、その危険性は高い。卵は蛇が狙いに来る。いつも、気を使い、体を使って生きている。生きるのは本当に大変だ。だから、高い木の枝に舞い上がったり、少しの距離なら飛ぶこともできるのだ。

 一方、鶏舎のニワトリは、自分の力で餌を取りに行く必要はない。毎日、決まった時間が来ると、餌と水が与えられるから、あまり、気は使わないし、体も使わない。天敵の襲撃を恐れることもない。便利で安全、物質的に恵まれている。ただ、ずらっと並んだお仕着せのケースに入って生活しなければならない。そして、労働の成果として産む玉子は、人間に提供することになるのだ。年老いて玉子を提供できなくなったメンドリは、価値の無いものと見做され、処分される。

 現代の文化文明を顧みて、皆さんがニワトリだったら、どちらの生活を選ぶのだろうか。

集中の危険

 ここに、大きなクヌギの木がある。樹液が大量に噴き出て、味も香りも申し分ない。林のカブトムシたちの間で、噂はたちまち広まった。或る夏の夜に、カブトムシたちは、雄雌一ペアーを除いて、その木に一斉に集合した。だが、運の悪いことに、集まったカブトムシたちは、その時、丁度、待ち構えていた子供たちに一網打尽に捕獲されてしまったのだ。残ったペアーは言った。「だから、言ったのに」。もう、遅かった。集中の危険である。

 都市に過密状態で住むこと、満員電車に乗ること、渋滞の道路で運転すること、混雑する人気の娯楽施設や商業施設に行くこと、などを象徴している。有名で味も香りも良い樹液に、一斉に集まる人たちへの警告である。
 現代人の集中する悪癖は、大袈裟ではなく、このままでは、いずれ集団を破滅へと導く。

 人の生きる意義は、人真似をして生きることではないし、人が欲しいと言うものを欲しがって生きることでもない。人々の個性や事情は、皆、それぞれ違っている。生まれも、育ちも、違う。これからも違った人生を歩むに違いない。受けた情報は、自分自身で考え、自分自身で判断し、自分自身に合わせて処理しなければならない。そうすることで、初めて、自由意志の行使が可能になり、生きている意義が生まれるのである。

科学と倫理の大前提

 科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)、そして、倫理感情を支える絶対感・真理感は、共に、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にある。
  しかし、それでも、科学や数学は、そのような前提の上に、客観的で確固たる体系を築くことができた。これをベースにした様々な技術の累積は、今や、物質宇宙に大きな影響を与える水準にまで達している。一方、倫理と言えば、3000年前のギリシャと比べて、殆ど進化していない。このギャップが、現代の文化文明を危険な道へと導いているのである。

 この危険な道から脱却するためには、人間の心に湧き上がる倫理感情に更なる力を与え得る新しい哲学が必要となる。その昔に作られた宗教や哲学は、多くの点で、科学や数学の客観的で確固たる体系の力によって修正されなければ、現代に通用しないのだ。
 宗教に潜む独善主義(例えば、教祖への盲信や原典主義)は、明らかに、時代遅れである。古くからある哲学の諸説も、科学的・論理的な矛盾があれば修正しなければならない。また、人間の能力では客観的な証明のできない、科学の対象範囲を超えた前提は、仮説として謙虚に提示されなければならない。

 一方、科学や数学も謙虚でなければならないのである。なぜなら、前述の通り、科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)は、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にあるからだ。宇宙の全てが、科学や数学的手法で解明されることはない。人間の能力を超えた領域を土台にして科学や数学が成り立っていることを忘れてしまっては、便利で物質的に豊かな現代文明も永続きはしないのである。

循環するグー・チョキ・パア

 昔から人間社会を動かす三つの大きな力についての話がある。一つ目は知力である。理性、論理、知識などを駆使し、分析、統合、整理して物事を考え、理解し、判断する力である。象徴的に学者と言う。二番目は軍事力、象徴的に軍人と言う。三番目はお金、象徴的に商人と言う。学者はグー、軍人はチョキ、商人はパアに例えられる。即ち、優劣はジャンケン通りということだ。

 事実、学者は商人に弱く(お金がなければ研究ができない)、軍人に強い(戦の大義を論理付け、また戦略を立てる)。軍人は学者に弱く、商人に強い(商売のベースである平和や秩序を破壊し、金品を奪い取る)。商人は軍人に弱く、学者に強い。そして、人間社会は、その優劣通りに循環するという。

 現在は、お金が一番のパアの時代であり、チョキの時代に向かいつつある。チョキの時代になって既存の秩序と富は破壊され、人々は壮絶な苦しみと悲しみを味わう。やがて、グーが台頭し、社会秩序と平和の再構築が始まる。グーの時代になると、パアが力を発揮して貧富の差が拡大する。パアによる不平等な平和社会が構築されて、一般民衆は、お金に支配され、自然を破壊し、職業家畜となっていく。社会に不満が充満し、内戦やテロが勃発する。チョキがこれら全てを破壊する。このような循環論であるが、確かに説得力がある。

 だが、これが、永遠に循環する訳ではない。「循環を保つバランスはいつか崩れ、次のバランスに向かう」というのが因果の法則である。

 チョキの時代には、そのバランスが大きく崩れ、水爆によって人類は絶滅するかも知れない。パアの時代には、自然破壊が度を越して、想像を超える大きな天変地異がやって来るかも知れない。進化して、新しい循環に移らなければならない。

オオクワガタ生態観察会

2017年7月26日(水)、南房総市・富山地域づくり協議会「フラット」との共催で、森のてーぶる・オオクワガタ生態観察会が開催されました。

毎年、この時期に開かれる地域恒例のイベントです。
今にも雨の降りそうな天候のせいか、例年に比べて参加者の数は少なめですが、大人と子供を合わせて、約60人が集合しました。

80ミリを超える日本オオクワガタ、台湾シェンクリング、インドアンタエウスなどの生態観察が行われ、その後、参加した子供たち全員に、オオクワガタ、ヒラタクワガタ、コクワガタ、カブトムシ、コガネムシが、くじ引きやじゃんけんで、プレゼントされました。

子供たちのはじける笑顔に触れて、地域の明るい未来を感じました。

 

愛してもその悪を知り・・・

愛してもその悪を知り、憎みてもその善を知る。

愛憎、好き嫌い、広い意味では、嫉妬、妬み、僻み等から、物事の善悪を判断すべきではないということである。

近頃、マス・メディア、インターネットに限らず、よく見られるものは、このような感情が正義を装って為される他者批判である。「悪いものは悪いとはっきり言うべき」だが、人を批判する時には、このことに注意しなければならない。

作用・反作用の物理法則は、心の世界を含めた因果の法則から生まれたものである。言い方を換えれば、心の世界にも作用・反作用の法則が働いているということだ。あなたが幸せを求めるのならば、この法則に気付かなければならない。

 

チームワークの成果

 外部環境からの影響を除外すれば、チームワークの成果は、チーム全体の力によって決まる。チーム全体の力は、チーム構成員一人ひとりの力の合成であるが、その合成に関わる構成員一人ひとりの相互関係性によって影響を受ける。

 全体を良くするためには、当然、一人ひとりが自己を磨かなければならない。だが、構成員である或る個人が力を付けることで、構成員である他者の力を歪めるような関係があれば、単純に、個々人が己の力を付ければ、全体が良くなるというものではない。全体として最大の出力を生み出す構成員一人ひとりの相互関係性が重要である。分かり易い言葉で表現すれば、そこに、調和や協調がなければならない。

  個人は、国家にも置き換えられる。世界が最大の出力を生み出すためには、それぞれの国家が、単純に、力を付ければ良いというものではない。そこに、バランスの取れた調和や協調がなければならないということである。

人は見たいものしか・・・

人は見たいものしか見えない。

人は聞きたいものしか聞こえない。

略、無意識の状態で、人は、自分の現実世界をこのように限定して、小さくしていく。

人類進化のためには、このことに気付く個人が、率先して、この無意識状態に意識の光を当てて、まだ知らぬ多様性の海に船出しなければならない。

中真似と外真似、本物と偽物

 人は、誰でも、人真似をして育つ。そして、人真似には二種類ある。一つ目は、人の持っている何かに共感し、それを真似るものである。この場合は、中身に価値を見つけ出して、それを真似ているのである。これを中真似と呼ぼう。二つ目は、世の中で流行っているもの、有名人がやっているもの、その外形を真似るものである。中身そのものはどうでもよい。皆がやっているから、ただ、それを真似したいのである。これを外真似と呼ぼう。同じ人真似でも、この二つは根本的に違う。

 外から見てこの両者は、区別が付き難い。例えば、サッカーをやりたい少年がいる。この少年は、本当にサッカーが好きなのか、仲間が、皆、サッカーをやっているからやりたいのか、この区別は簡単には付かない。そもそも、半々ということもある。やりたい本人も分からないことが多い。

 外真似も馬鹿にしてはならない。やっている内に、本当に、中身に価値を見つけ出す者もいるからである。「石の上にも三年」、自意識過剰になって、自分探しをする若者には、これを勧める。

 一つ目、即ち、中真似は本物を作る。二つ目、即ち、外真似は偽物を作る。この意味で、嫌がるものを押し付ければ、偽物になるだけだ。世の中には、偽物の人間が圧倒的に多い。親や教育者、そして、社会環境に責任がある。子供を本物にしたい親は、この二種類の人真似について理解を深めて欲しい。世の中に本物が増えれば、世の中は進化し、世の中はさらに面白くなる。

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仕事と労働

 ここでは、「仕事は、好きで、天職と思って、自発的な形で働くこと」、「労働は、経済的理由、義務や強制などによって、自発的ではない形で働くこと」と定義しよう。この両者を混同させてはならない。社会的な外見から見れば同じように見えても、人の心にとっては根本的に違うものなのだから。但し、続けているうちに、自分にとっての意味と価値をその内に見出して、労働が仕事に変わることもよくある。そもそも、心の中で、初めから、仕事と労働が半々ということもある。

 現代に於いて、一番問題になるのは、お金のために嫌な労働をしているのだが、本人がそのことを自覚していない場合である。労働の中身そのものは、それほど嫌ではないが、その周囲の環境が慢性的なストレスを与える場合(過密居住、満員電車通勤、慢性騒音、空気汚染など)は、意識することがとても難しい。また、賃金の高さ、楽さ加減、勤め先の知名度などを基準に、自分に合わない、欝病を誘発するような労働に従事する人間も増えている。

 ここで、世間一般で言う労働法というものを考えてみよう。すると、ここで定義した労働という視点に立った考えだけが見えて来る。そこには、仕事という視点はない。仕事も労働と見做してこの法律は出来上がっているのだ。だが、人間が行う経済的活動には、明らかに、仕事と労働が含まれていて、それを同じに取り扱えば、社会的な矛盾が生じるのは必然である。その区別は微妙で難しいが、この区別をしっかり考えた上での労働法でなければ、目的である労働者保護は、却って、仕事をする人々、労働をする人々を困らせるものとなる。

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言葉には限界がある

 色々な角度・視点から何回も繰り返して物事を見ないと、正しい判断はできない。周囲の環境との絡みをできるだけ多く把握しないと、物事の判断を誤る。しかも、周囲の環境は刻々と変化する。だから、一つの固定した視点からの物言いは、別の視点から見た時、おかしなものになることが多いのである。
例えば、「本当のことを言わないのは悪いことだ」という言い方がある。或る特定の前提に於いて、それは正しい。別の前提に於いて、それは誤りである。窃盗犯が本当のことを言わないのは悪いことだが、知り合いの老人に、挨拶で、「随分老けましたね」などと本当のことを言うのは良くないことだ。

 ギリシャの哲学者、ゼノンのものとされる有名な話に「アキレスと亀」がある。「俊足のアキレスは鈍足の亀に無限に近づきはするが決して追いつくことはできない」という話である。
・・・アキレスが亀を追いかけ、亀のいた地点に到着すると、亀はそれなりにその地点より先に進んでいる。次に、アキレスは、亀が進んだその地点に向かうが、アキレスがその地点に到着した時、亀はそれなりにまた先に進んでいる。このような繰り返しが永遠に続くだけで、アキレスは決して亀に追い着くことはできない。・・・
だが、この話は、アキレスが亀に追いつく寸前までの時間と距離を次々と無限に細分割する前提になっているのだ。

 前提条件によっては、「1+1=2」も、おかしなものになる。砂利一杯のバケツと砂一杯のバケツを合わせると、バケツ二杯にはならない。

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不動明王の怒りと観音の悲しみ

 怒りについて話そう。「自分の立場しか視野に入らず、人間を怒りの対象として、破壊しようとするもの」と「他者の立場にも立ち、不公正や不公平を含めて悪を怒りの対象とし、それを破壊しようとするもの」の二つがある。
  後者の怒りを「不動明王の怒り」と呼ぶ。両者の違いを見分けるのは、極めて簡単である。前者は、人間に対する怒りであるから、自分自身の心身も破壊する。嫌な後味が残る。いつも怒っていると、自分自身の胃腸や十二指腸が破壊される。後者の怒りは、悪に対する怒りであり、嫌な後味はない。自我の拡大を伴う大きな愛の感情に支えられて晴れやかな安定感が残る。悪を実行した人間に対しても、愛の感情を注いでいるのである。罪を憎んで人を憎まず、悪を破壊し人を労わる。

ノウマクサンマンダバザラダンゼンダマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン
不動明王真言

  悲しみについても、同じことが言える。「自分のことだけの悲しみ」と「その自分の悲しみを乗り越えて悟った他者の悲しみ、即ち、他者の立場に立った悲しみ」の二つがある。 後者の悲しみを「観音の悲しみ」と言う。自我の拡大を伴う大きな愛の感情の中に同情や共感がある。

オンバザラタラマキリク
千手観音真言

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泣きと笑い

 感情が高まり、緊張やストレスが或る限界に達すると、それを無意識的に、且つ、一気に崩す仕組みが、心と体に連携して作られている。

 喜びと悲しみはコインの表裏である。喜びと悲しみが限界に達すれば、涙が出る。恐怖の場合には、失禁が生じる。ちなみに、オオクワガタの幼虫にも恐怖の感情が湧き上がる。オオクワガタの飼育をした人の多くは気付いているだろうが、菌糸瓶への入れ替え時に、急に箸で摘まんだりすると、恐怖の余り脱糞する。
この種の感情は、本能として、小さな脳の昆虫にも湧き上がるのだ。「感情とは何か、どこに存在するのか」を考える絶好のきっかけとなる。「お前はオオクワガタではないのに、なぜ、その感情が分かるのか」と言う人がいる。その質問に対する答えは、「他人の感情を直感するのと同じだ」と言うしかない。
創造主・自然の力は素晴らしいもので、この脱糞は、敵をびっくりさせる効果もある。また、少しでも体をスリムにして穴に逃げ込み易くする効果もある。オオクワガタに馴染みのない人は、蝉の小便を思い出して欲しい。

 少し、複雑なものが笑いである。基本的には、前述の仕組みと同じだ。緊張の消失に伴う安心感や満足感の中での笑い、緊張を保っていた認識に突然のずれが生じ一気に緊張が解けて安心した時の笑いなどがある。前者は、赤ん坊の笑いやホッとした時に出る柔らかな笑いだ。後者は、ジョーク、ユーモア、ウィットなどで、高度に選別されている。謎掛け遊びの中にも潜んでいる。単なるストレス解消から、人生を楽しくするもの、人付き合いでのトラブルを避けるものまである。文化的にも、社会的にも、とても大切なものだ。
さらに、笑いは複雑である。社会的な意思表示として、意識的に作ることもある。これらには、他の感情も入り混じっている。笑って、逆に、それに相応する心の状態を作るのだ。愛想笑い、作り笑い、ネガティブなものでは、嘲笑などが考えられる。
笑いとは、体の動作と心の状態が繋がって循環運動をしているものだ。どちらが先でも構わない。笑う門には福来たる。心が笑えば、体が健康になる。体が笑えば、ストレスから解放されて、心が健やかになる。

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