爺と坊主たちの戦い

最近、躾という文字を見かけることが少なくなりましたが・・・

先日、こんなことがありました。客間に置いてある大型のラジコンヘリのアンテナの先端が折れているのを発見。我が家には、近所の子供たちがよく遊びに来ます。子供たちには、勝手に、部屋に入ったり、置いてあるものに触れないよう注意をしていたのですが、どうも約束を守ってもらえなかったようです。

現行犯であれば、注意の仕方も簡単ですが、この場合の叱り方には注意が必要です。某政治家、某官僚、某大学運動部監督のような答えが返ってくることも考えられます。

そこで、爺は色々考えてみました。
男の子であれば、めったに見ない大きなヘリに興味を持つのは当然、コントローラーにも触ってみたい。それを無防備に置いてしまった爺にも責任があるのかな、この子には前にも小さないたずらがあったのに?
持ち主である爺は、なぜ、いたずら対策をしなかったのか。
子供好きの爺ではあるが、これからは、子供が勝手に家に入れないようにすべきなのか。
家の中でしっかり防備すべきなのか。
それとも、問いただして、善悪について考えさせるべきなのか。
起きてしまったことの正直な報告をさせるべきなのか。

躾とは何だろうかと考えてしまいました。他人の子供も自分の子供も区別をせずに叱れるかな?

近くの人々・遠くの人々・地球

世界人口は、現在、70億を突破し、このまま順調に行けば、21世紀末には、100億を超えると予想される。この限られた地球上に、これだけの数の人間が生活するという点でも問題はあるが、ここでは、身の回りに居る近くの人々と直接会うことのない遠い人々に対する優先順位付けを中心に考えてみたい。

近くの人々は、多くても、遠くの人々の0.00001%程度、人によっては、0.000001%程度である。これだけ限られた人々であるから、相争うことは愚の骨頂、大切にしなければならない。遠くの人々よりも優先順位が高いのは、人間として、当然である。近くの人々と仲良く楽しく暮らすことが、何より一番、人生の幸せである。マス・メディアなどを通して出来上がる(一方通行の)近くの人々は、これより、遠い関係にあることを知らなくてはいけない。親・兄弟を低く見て有名人に憧れる若者、育てられた故郷を忘れて都会の人々に憧れる若者は、悪いとは言わないが、余り美しくはない。

だが、ここで、気付かなければならないことがある。思い余って、近くの人々の利益のために遠くの人々を害すれば、廻り回って近くの人々を害することになるということだ。自己の利益のために他者を害すれば、廻り回って自己を害することになるのと同じだ。具体例を一つ挙げれば、どんな状況下であろうとも、戦争は絶対にいけないという話である。自然宇宙を支配する因果の仕組みには、厳然たる作用・反作用の法則が含まれている。

全ては、バランスの問題である。近くの人々を優先しながらも全体の共存共栄を考えなければならない。人類は、一つの集合動物であり、個々の人間はそのパーツなのだ。全体を破壊すれば、そのパーツもやがて破壊される。

考えを更に拡げてみよう。地球は、一つの集合動物であり、個々の人間はそのパーツなのだ。人間の活動は、常に、自然との共生を念頭に置きながら、行われなければならない。お金(経済・産業)のために自然の循環を次々と破壊すれば、そのパーツである人間もやがて破壊される。

イルカとチンパンジー

イルカとチンパンジーはどちらが優れているのか。この質問には、様々な視点からの意味と価値があって、一概に答えることはできない。

チンパンジーは自己と他者・外界を厳しく分別・意識して生きている。自己や自己の所属する小さなグループを最優先して、他者と競争し、それに打ち勝つ能力を進化させてきた。愛の感情や他者を思いやる気持ちが全くない訳ではないが、他のグループと縄張り争いをして、場合によっては、相手の子供を引き裂いて食べてしまうこともある。お腹が空けば、仲間の食物を奪ったりもする。この方向での進化の最先端には、チンパンジーとゲノム配列がほんの僅かしか違わない人類がいる。人類もこの種の競争に打ち勝つため、知能を高めて、他者・外界を自己の都合に合わせて改変する力を進化させた。今や、自然の仕組み・実態の発見(科学)とその応用(技術)は、この意味に於いて、人類を他の生物とは次元の違うステージに引き上げたのである。

イルカは、当然のことながら、生存本能を備えており、生きるための競争はするが、それよりも、他者・外界との一体感を意識する能力を高め、他者・外界と喜びを共有するフレンドリーな感性を進化させてきた。イルカは、遊び好きで、好奇心旺盛、知能もそれなりに高い。見知らぬものを恐れて敵視するのではなく、安全と見抜けば、好奇心から、接触してくる。仲間の子供たちにも愛情を注ぎ、仲間と食物を分け合って、喜びを共にすることができるのだ。

チンパンジー型の能力だけでは、もう、人類は、この地球上で生き残ることはできない。物理的に巨大な力を持ってしまったからだ。バランス良く、イルカ型の能力を進化させなければならない。

どうすれば良いのか。筆者の仮説する「集合記憶感情伝達・創造循環・本能化・進化の仕組み」(別項参照のこと)に注目して欲しい。より多くの人々が、世代を重ねて、意識的にでも(建前からし始めたとしても)、他者と喜びを共有する体験を、積み上げれば、それで良いのだ(このためには、戦争のない世界、より良い社会を構築する必要がある)。やがて、前述の仕組みが動きだして、他者・外界との一体感を本能的に意識することのできる心の進化が人類全体に訪れるのである。ここまで進化すれば、もう、本音と建前を使い分ける必要がなくなる。

二種類の老人

世の中には、二種類の老人がいる。「ご機嫌な老人」と「ご機嫌斜めの老人」である。「穏やかな秋の日差しに心を和ませる老人」と「濡れ落ち葉を実感し悲哀に暮れる老人」と言ってもよい。

前者は、世の中で競争し、協調し、数々の経験を重ねた結果、他者や外界の様々な視点や立場を感情面で理解できるように成長した。顕在領域に於いて、或いは、潜在領域に於いても、自己と他者の繋がり、自己と外界の繋がりを実感している。即ち、自我意識の拡大が生じ、他者や外界に対し、その程度や質に違いはあるとしても、何らかの一体感を持っているのである。

これに対し、後者は、世の中の厳しい競争の中で数々の経験を重ね、その結果、狭い自我意識に閉じ籠り、他者や外界を自己から分離し続けたのだ。老人になった時、他者や外界との繋がりを実感できなければ、他者に対する批判が厳しいだけの能力の低下した濡れ落ち葉になってしまう。

因みに、近年、「子供の世話になりたくない、子供に迷惑を掛けたくない」などと言う、他人行儀の歳を取った親が増えている。自分が親孝行しなかった裏返しかも知れない。しかし、これが、時間と愛情を掛けて子供を育てる余裕のない、従って、子供との一体感など生まれようのない、忙し過ぎるお金に支配された世の中を象徴しているのであれば、とても悲しい。

二種類の嘘

「事実と異なることを、故意に人に話すこと」を嘘と定義するなら、嘘には二つの種類がある。一つは、人をおとしめて自己の利益を図るためのもので、悪い嘘である。もう一つは、人を喜ばせ元気にするためのもので、良い嘘である。
良い嘘は、世の中では嘘と言わないかも知れないが、これらは人間社会を豊かにする大切なものである。逆の言い方をすれば、「何でも、真実を告げればよい」という考えでは、人間社会は成り立たないということだ。挨拶で、「お元気ですね」という代わりに、真実を尊重して、「老けましたね」などと言う人は、どこか狂っている。人間は、無意識に、心が、感情が、合理性や論理性に優先して生きている。思いやりが、故意に、事実の表現を歪めることもある。しかし、これは、倫理性に劣るわけでもなく、論理性に欠けるわけでもない。
物質万能主義や合理主義に慣らされると、この辺りの微妙なバランスが分からなくなってくる。インターネット上の悪意情報は、嘘も真実も含めて問題外としよう。今、問題とするのは、善意と公共性を前提とするマス・メディアに、この点での勘違い(分かってやっている?)が多く見られることだ。支配層による「言論の自由圧迫」は許されるものではない。だが、マス・メディアは、倫理的側面を考慮して、自発的な報道の抑制が常に必要なのだ。例えば、それが事実であれば、報道された者やその親族の悲しみを無視して、ニュースに取り上げてよいものだろうか。そのニュースが、ミーハーたちの単なる興味を掻き立てるだけのものであれば、尚更だ。それが視聴率を上げる目的であれば最悪だ。例えば、犯罪ニュースにしても、その表現は慎重に為されなければならない。社会に対する一種の警報のつもりでも、本音が興味本位の報道であれば、犯罪の模倣を招く伝染媒体となるだけである。

日本人の美徳

言葉というものは、本来、多様な解釈が成り立つものなのだ。

正直、真面目、勤勉・・・
大義、正義・・・
世のため、人のために尽くす・・・

日本という国に於いて、戦前・戦中、これらの言葉は、支配層によって、無知な人々を操るために悪用された。
だから、戦後、これらの言葉は、その力を低下させてしまった。

そして、これらの言葉が、本来、持っている素晴らしい意味と価値を理解できない、場合によっては侮蔑さえする、日本人が増えてしまったのである。

言葉というものは、その場、その環境で、同じ言葉でも使われ方が違う(意味・ニュアンスが異なる)ということを知っていれば、決して怖いものではない。

現在でも、海外での日本人への好評判は、上述の言葉が象徴している美徳から来ている。

理想を語れば・・・

心が笑えば、体も笑う。体が笑えば、心も笑う。

心と体の間には、先天的に、循環ルート(心→体→心→体・・・)が存在し、それは、あらゆる面で、微妙な感情・感覚を絡めて、自律的に作動しているのだ。

そうであれば、多くの人々が、日々、体を使って(感覚器官を媒介にして)、理想を語れば、より多くの人々の心に理想のイメージが自律的に湧き上がり、より多くの人々が理想を実現しようと思うだろう。

多くの人々が、理想を語り続け、現実とのギャップを乗り越えるための長い時間に耐えることができれば(寛容さを持てば)、理想は、やがて、この世にも、実現すると信じたい。

善意には善意を、では、悪意には・・・

論語の言葉に、「善意には善意で応え、悪意には理性で応えよ」というものがある。

現代の先進国社会は、物と便利さ、言い換えれば、お金にすっかり支配されてしまった。そこでは、愛や倫理がその力を失い掛けている。そして、お金持ちや有名人に対する嫉妬心が生み出す悪意が、メディアを媒介として渦巻いているのだ(歪んだ社会ルールがまかり通っていることに対しては、正義の声を上げるべきだが)。今では、小さな個人でも、SNSを通じて、容易に、悪意ある情報を社会にばら撒くことができる。詐欺グループは力の衰えた老人を狙い撃ちにする。独り住まいの老人や女性はより賢くならなければ生きていけない。社会の歪みに対し個人的で視野狭小な怒りを爆発させるテロリストは、これからも、増加するだろう。

一人ひとりが、日々、努力しよう。
善意には善意で応え、悪意にはその意図を見抜く理性を磨いて対応しよう。

昨今、悪意を恐れる余り善意に対し善意で応えられない人々が増えているのも悲しい。

孫たちの生きる未来社会が心配だ

金力と武力を使って国際ルールを自国有利にしようとする大国、本音と建前を使い分け権力と税金を食い漁る政治家、利益目的のモデルチェンジを繰り返し自社製品の保守を嫌がる世界的大企業、膨大なお金の遣り取りで真面目な労働を嘲笑うギャンブル金融企業、視聴率に支配されバランスを崩したマス・メディア・・・そして、これら勢力が支給するパンとサーカス(娯楽・スポーツ・ギャンブルなどの依存症を生み出し、考える力を奪うもの)によって家畜化された大衆は、目先の利益を永遠に追い求めて自然を破壊し続ける経済システムの下で、働き続ける。

科学技術がこれほどまでに発展すると、海・山・川は容易に破壊され、水爆が独裁者やテロリストの手の届くところとなる。科学技術の発展と比べて、人間の理性と倫理感情の進化は遅い。一部の富裕層だけにお金が集中すれば、資本主義は必ず行き詰まる。大量生産を支える大衆消費が行き詰まるからだ。自然とその循環を破壊すれば、人間は生きていくことができない。人間は自然の中に生かされている自然のパーツなのだ。矛盾を抱えたシステムは、規模が拡大すればするほど、自滅が早まる。

孫たちの生きる未来社会が心配だ。

未完成のナショナリスト

ナショナリズムの最小版は、自己本位主義だ。自己を大切にすることは、基本中の基本であり、大切なことである。だが、自己と他者は、あの世に於いて同じ根から生じていることを理解しないと、自己破滅に陥る。同じことが、家族中心主義や仲間優先主義にも言える。地域優先主義にも国家優先主義にも当てはまる。即ち、ナショナリズムは、他者と同根であることを深く実感することで完成形となるのである。別の言い方をすれば、「未完成のナショナリズムは、自己崩壊に向かう矛盾を内包している」ということになる。今、原野に一本の植物が葉を茂らせ花を咲かす季節を待つ。この花を咲かせようとして、周りの植物を除草剤で全滅させるとする。この植物の周りは、草木一本生えない不毛地帯となる。この植物はどうなるだろうか。

自己本位主義は、皆から嫌われ、社会から高い評価を得ていない。だが、自己を大切にすることは、重要なことで、誰でもそうしている。だから、「他人も、自分と同じように、自分自身を大切にしている」ということを実感できないと嫌われるのだ。この意味をよく理解して欲しい。
家族中心主義はどうだろう。例えば、運動会で他人の迷惑を顧みず、運動場に入って我が子の写真を取りまくる父親は美しいのだろうか。家族を愛するその姿は美しいが、「他人も同じように家族を愛し、子供の運動会を楽しみにしている」ことが見えない、その視野の狭さは、稚拙としか言いようがない。
自国を愛することは美しい。我が郷土を愛し、我が家族を愛することは美しい。だが「他国民も、同じように、自分の国を愛し、自分の郷土を愛し、自分の家族を愛している」ことが実感できなければ、美しくないどころか、危険である。

「世の中に幾億万の母あれど、我が母親に、優れる母なし」という歌がある。これがどう読めるかによって、人間の大きさは変わってくる。そして、その人間が乗り越えなければならない課題も変わってくるのだ。未完成のナショナリストは、自分の母親だけが特別な存在で、自分の母親だけが世界一だと素朴に読む。それは、それで美しい。だが、その背景に、自分は、特別な存在だという稚拙な思い込みがある。
完成したナショナリストは、「この作者は、普遍的な人間性と一体化した自分を実感して、その上で、改めて、自分の母親を至上のものとして詠っている」と読む。普遍的な母親の愛の本質に触れることで、この歌は、逆に、幾億万の人々のエネルギーを持って、心に迫ってくる。幾億万の母親の様々な愛と、その愛それぞれを至上のものと感じる幾億万の人々の姿が、大きなスケールで心に浮き上がってくる。

未完成のナショナリストは、支配層に利用され易い。政治的野心が利用するものの一つとして、「人種・民族・宗教・文化の違い」がある。他国の人々を本当には知らない、その弱点を突かれて、不安、恐怖、憎悪、侮蔑心、敵愾心が煽られる。よく知っていれば涙を流して共感するかもしれない敵国の兵士に、お互い、弾丸を撃ち込む。完成したナショナリストであれば、敵は人間でないことを知っている。人間を破壊しようとする感情が敵であることを知っているのだ。同じ根を持つ仲間を破壊すれば、自分も枯れてしまう。

21世紀初頭の世界的大問題として、移民や難民の受け入れ問題が浮上している。異文化、異なる価値基準を持った人々の受け入れは、様々な社会的摩擦を引き起こす。特に、受け入れ国の下層に位置する人々は、受け入れられた人々との競争により、大きな社会的・経済的打撃を受けるのだ。この事実を軽視してはいけない。しかし、これらをよく見てみると、元々、受け入れ国に存在する社会・経済ルールの歪みがベースになっているものが多いのだ。例えば、元々ある劣悪な住宅事情とその地域格差、元々ある低賃金労働とその労働環境などに起因するものが多い。社会・経済ルールの歪みを是正することは、こうした打撃を和らげる働きにも繋がるのである。
当然のことではあるが、移民や難民の受け入れ負担は、国民、皆が平等に引き受けなければならない。同じ根を持つ人類の兄弟を救うことは、長い目で見れば、必ず自分たちの社会を救うことになるからである。だが、性急・不備な受け入れはいけない。社会的な混乱を引き起こす。受け入れの理念を明示し、その方向に向かって、時間を掛けて、できることから一つずつやっていくしかない。
考えてみれば、現生人類は、その発生以来、移民や難民と同様に流れ流れて、世界中に拡がった。その間、未完成のナショナリスト同士による激しい争いがあったことも事実だ。多くの血が流された。しかし、結果としては、血が混ざり合って今日の繁栄に漕ぎ着けたのである。ちなみに、日本人は、人類学的に見て、この混ざり合いの良い見本である。異なる文化、異なる血を持つ者たちが同化して日本民族を作り上げたのだ。同じ血を引く近親交配だけでは、劣性遺伝が現れて、衰退するばかりだ。文化面でも、同様に、異質性の導入が必要である。
大きな視野に立てば、「仲間を大切にする」ということは、「他者を受け入れる」ということでもある。仲間が大事だからといって、その仲間とばかり付き合っていれば、やがて自滅するからだ。異なる文化を持つ者たちと交わってこそ、世の中は進化して持続的な繁栄が生まれる。人間はそのように出来ている。

未完成のナショナリストとは、自分自身をよく理解できていないナショナリストのことを言う。他の世界を理解することで自分の世界が理解でき、自分の世界を良くすることができるのである。

戦争の実情

現代の戦争とは、建前としては、敵の不正義を制裁するとしてお互いが武力行使することである。だが、その実情は、国の一部支配層が、優越欲、支配欲、名誉欲、権威欲、金銭欲、物欲などを満たすことを目的として、又、相手国の人々をよく知らないことから生じる恐怖、不安、不信、憎悪、嫌悪、軽蔑などが引き起こす一般民衆の集団破壊感情が原因になって、戦争は始まるのだ。
本当の敵は相手の国民ではなく、このような感情なのだが、これを正しく理解するには感情面での進化、例えば、チンパンジー的本能からの脱却など、が必要である。戦争は、こうした感情をベースとする社会的雰囲気が出来上がると、極めて小さな小競り合いや事件から始まる。そして、一旦始まると、後戻りは難しく、拡大方向に向かうことが多い。

敵国制裁がうまくいかずに長期の耐久戦に陥ったり、逆に、敵国に攻め込まれたりすると、戦争は、その本質を露わにする。戦争の本当の敵は人間なのだ。戦争に支配された感情は、敵国の人間を思うように破壊できなければ、代わりに、自国の人間の破壊に向かう。我が国の先の大戦の実態を直視して欲しい。
お国のために負傷した下級兵士は、足手纏いとして射殺された。仲間の兵士に人間的に同情すれば、上官から体が動かなくなるまで殴られた。経験の浅い若い兵士は、訓練の手間を省くために肉弾として利用された。沖縄では、上陸したアメリカ軍が使用するのを阻止するためと称し、自国の兵隊が一般民家を焼き払った。満州では、軍人が民間人を置き去りにした。
これが、戦争の実情だ。正義も不正義も、お国のためも、あったものではない。人間に対する恐怖、不安、不信、憎悪、嫌悪、軽蔑などの感情が、理性を超えて渦巻いている。

戦争に勝つための唯一の方法は、戦争をなくすことだ。敵は何なのかを正確に見極めなければならない。敵は人間ではなく、人間の心に湧き上がる戦争に支配された感情である。この感情に勝つためには、相手国の人々が、実は、自国の人々と同根であること、親を愛し子を愛する人間であること、を理解するところまで、お互いに、知り合わなければならない。

歪んだルール

「小さなものは見え易いが、大きなものは見え難い」という言葉を知っているだろうか。スーパーで、1円2円の価格差に一喜一憂し、マンション購入で、数百万円、いや、一千万円を超える損をしても気付かない人は多い。大き過ぎて見えないのだ。

スポーツ選手は、一生懸命、技を磨き、体力を養い、チャンピオンを目指す。そのことは素晴らしいのだが、ルールを変えれば、チャンピオンがチャンピオンではなくなる。国を代表して競い合うスポーツでは、ルールを支配するものが、大きくて見え難いことを悪用して、自国有利のためにルールを変更することがある。

全ての競争にルールは必要だが、そのルールは、特定の国、特定の組織、特定の階層、特定の人によって支配されてはいけない。特定の国、特定の組織、特定の階層、特定の人に有利なルールが生まれる恐れがあるからだ。しかし、現実はどうだろうか。スポーツはおろか、社会競争や経済競争に於いても、不公正なルール作りとその結果としての歪んだルールが蔓延しているではないか。

ここはどこ?私はだれ?


10月初旬、友人2人と河口湖、山中湖へ出かけた。高速バスで河口湖駅へ着いたときに、ビックリ!駅前に大勢の人がいたが、日本語が全く聞こえなかった。友人と顔を見合わせて、「え!」と思い、出た言葉が「ここはどこ?私はだれ?」であった。日本人としての立ち位置が分からないままに、観光立国の宣伝、オリンピックの開催などが囃し立てられ、”おもてなし”という言葉も流行っているが、「本当に大丈夫なのかな?」と感じた。

おいてけぼり、ほったらかし

さて、皆さんは恨めしや~のほうで「置いてけ堀」という話を知っていますよね。

堀の中には魚がいますが、世の中には人がいます。釣り上げられた魚の行き先には、何があるのでしょうか。

売り物にならず、直ぐに、堀に返された魚には、元の自由な生活が待っています。一方、今の世の中では、売り物になる魚でも、話題になった後で、「ほったらかし(河岸)」という過酷な運命が待っていることもあるのです。釣り上げられて河岸に出されたら、元の堀には戻れません。

「置いてけ堀」に残された魚と、釣り上げられて有名になった(河岸に出された)魚とでは、どちらが幸せなのでしょうかね。

若者が政治をする

若者が政治をする方が良い。「若者を中心とする政党が政権を担って政治を行う」という意味だ。但し、若者は、経験不足で視野が狭い。単純論理に走り易い。目先の善悪や正誤にこだわって争う感情も強い。だから、それを補うために、老人の経験や知恵とのコラボレーションが大前提となる。善良で良識のある老人は、死を意識して社会に良いものを残そうとする。歳を取って、更に、欲張る者もいるが、その数は少ない。

多くのしがらみを社会で作ってしまった働き盛りの大人たちが、政権を握っていては、人間的或いは組織的な癒着から生じる歪みをどうやっても払拭できない。明治以来の体質が、今も尚、その底を流れる日本の官僚体制の改革は、極めて難しい。社会との様々なしがらみを持つ大人たちでは、この現実社会の行政実務を牛耳る官僚たちに真っ向から対抗することはできない。又、お金や票に直結する大組織とのしがらみを持つ大人たちでは、利益誘導型政治から抜け出すこともできない。働き盛りの大人たちには、働くことに集中して貰おう。

未来の政府は、偉そうに一般民衆を統治するものではなく、一般民衆が構成する社会の調整機構として、即ち、公僕として、機能するものである。若者よ!老人から、その経験と知恵を借りて、君たちの「これからの社会」は、君たちが自分たちで作れ。大人にお願いばかりしても、また、不平不満を漏らしても、無駄だ。若い君たちの方が、社会とのしがらみが少ない分、公正・公平な社会を作ることができるのだ。

好きなことをして生きられたら・・・

好きなことをして生きられたら素晴らしい人生だ。
だから、仕事でも、趣味でも、そう、努力するのは、とても良いことだ。
けれど、何が好きなのかは、やってみなければ分からないこともある。
誰を好きになるのかは、付き合ってみなければ分からないこともある。
初めからの食わず嫌いは、人生をつまらなくする。
そして、好きなことをして素晴らしい人生を送るのには、一つだけ条件がある。
それは、自分が好きですることを周りの人達も喜んでいるということだ。

新しく優れたものは・・・

新しく優れたものは、それが世に出た時、社会から理解されることは極めて少ない。
もし、直ぐに高い評価を受けるならば、そう評価する人達が、既に、多数、社会に存在することになり、「それは新しいものではない」ということになる。

既成の知識層やマス・メディアが、理解しようとしない、注目することのないところで、 日々、地道に、努力を積み重ねている「名も無き人々」の土台作りによって、真の社会進歩は支えられているのだ。

幸せ見つけた!002

今の東京は、こんなに人がいるのに、孤独で寂しい。
みんな焼けてしまった戦後、バラックの中で、汚れた子供たちがごろ寝していた。
家の子供も近所の子供も、分け隔てなく、大人は接していた。
貧しくても、寂しくはない。
共に生きる仲間がいるからだ。
あの頃は、家族の定義が、もっと広く、おおらかだったように思う。

幸せ見つけた!001

樹木のある交差点で、孫娘を自転車に乗せたおばあさんが信号待ちをしている。
夕食のための買い物に行くのだろう。
おばあさんと孫娘は、何することなく、ただ楽しそうに、顔を見合わせ笑っている。
秋の夕陽がまだ明るい街角、黄金色の光の中に、小さな幸せを発見した。

モッタイナイ(一握りのお米)

今日、食べるお米がなくなり、買いに走った。玄米が食べたくて、新米(ちょうど新米の時期)を探した。うまく見つかり、その店にある精米機に向かった。白米は、食味は良いが栄養価は低い。玄米はその逆である。その「良いとこ取り」をしようと、三分搗きの精米を考えたのだ。

5キロの精米が終わり、袋に入れて機械周りの清掃をしたところ、前の人達の分も含めて、床に落ちたお米が手のひら一杯程集まった。それを見て、ふと思った。

モッタイナイ!今日は9月15日です。8月15日(終戦記念日)から1か月です。昭和20年のこの日に、これだけのお米が掃き捨てられるのを見たら、当時の人たちはどう思ったでしょう?

風が吹けば桶屋が儲かる

「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺がある。
これを、「因果の車は人知の及ばぬ領域でも廻っている」と読む。

これに絡めて、昨今、気になることがある。社会に不幸な人が続出するのではないかという心配だ。それは、マス・メディアやSNSの吹かす風である。妬み半分の正義を振り回して、寄って集って、特定の個人を非難中傷する現象である。個人に対する非難中傷は程々にして、「どうすれば、そのような不祥事をなくす社会的な仕組みが出来上がるのか」に焦点を絞る方が良い。視聴率は上がらないかも知れないが、そこに、本来のマス・メディアやSNSの存在意義があるのだ。

そればかりではない。このような風に乗って他人を非難中傷する人々には、やがて、作用反作用の法則を積んだ因果の車が廻って来る。幸せな人生を送るための第一歩は、他人を不幸にしないことなのである。

大きな根を持つ植物

今、この野原に、赤、白、黄色の花を咲かせる植物が繁茂している。

この植物には、光を好むもの、日陰を好むもの、乾燥を好むもの、湿気を好むものがある。日照りの時には、光を好むものと乾燥を好むものが活躍し、雨続きの時には、日陰を好むものと湿気を好むものが活躍する。こうして、頑張って、今日の繁茂を達成したのだ。だから、好みはみんな違ってよい。

また、三色の花は仲良く一緒に咲き誇り、そよ風に揺れている。自分と色が違うからといって、他の色の花を嫌ったりすることは決してないのだ。

この植物は、地面の下にある大きな一つの根に、自分達すべてが繋がっていることを知っている。

好きになれないもの、なれるもの

個人的な感想です。
「人それぞれ」は大切です。
だから、「皆同じ」も認めます。

でも、有名人がやっている、皆がやっている、
それで、関心を持って外見を真似る、・・・好きにはなれません。
何か、ハーメルンの笛吹き男にそそのかされた集団自滅の匂いがします。

人の思惑など気にせずに、
その内容に触れると、ワクワクする、意味が分かる、
それで、探求する、自分に合わせて楽しむ、・・・好きな生き方です。
これなら、生きる意味が実感できます。

マモン

皆さんもご存知の通り、マモンとは、旧約聖書に登場するお金・財・富の神様である。本来、人間は本物の神様のしもべである筈なのだが、その時代、放っておくと、マモンのしもべに成るものが続出した。そこで、神様は警告する。「私とマモンの両方に仕えることはできない」と。

現代を生きる我々に対し、もう一度、この言葉が発せられるかも知れない。そもそも、マモンは、「人間の欲望と仲間への信用」から生まれた、人間(集団全体)に仕えるためのパワーである。お金に着目して簡単に言ってしまえば、「人間は、本来、お金の主人公」ということだ。お金は、人間によって、大いに利用されなければならない。

お金は、人間社会を回り歩くことで、そのパワーを発揮する。日本では、昔、その性質を見抜いて、お金をお足と呼んでいた。お足を使って豊かになることを知っている人達は大商人と呼ばれた。

だが、欲が過ぎて、社会全体を顧みず、自分達だけにお金を留めて置こうとすると、立場は逆転して、「人間がマモンの奴隷になる」という法則がある。お金は、程々に、有効に、使わなければならない。この法則にも目を向けなければならない時代が来ている。

個と集団

個人主義は美しい・・・醜い。
家族主義は美しい・・・醜い。
同胞主義は美しい・・・醜い。
会社主義は美しい・・・醜い。
地域主義は美しい・・・醜い。
民族主義は美しい・・・醜い。
国家主義は美しい・・・醜い。
世界主義は美しい・・・醜い。

視点・立場が異なると、価値は逆転する。
バランスが悪いと、醜くなる。

競争と協調

 我々は子供の頃、「一生懸命やって、学業成績を上げろ、運動会で一等賞を取れ」などと言われた。それで、頑張って競争し勝ってみたら、今度は、「協調精神が足りない」などと注意される。人間は、レイモンド・チャンドラーの小説で探偵フィリップ・マーロウが言ったように、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」のかも知れない。

 切磋琢磨し競争しなければ、個人としても社会としても、進歩・向上がない。だから、競争は必要である。しかし、協調がなければ、その進歩や向上は、個的なものにとどまり、社会的な相乗効果が期待できないばかりか、社会的な累積も難しい。さらに、秩序は失われ、競争は激化し、争いが蔓延し、少数の勝者のみが生き残る。結果として社会は衰退する。

 我々は、自分を狙う犯罪者に優しくするのは難しいが、相撲で勝負した相手には、侮蔑ではなく礼を持って接する方が良い。山の柿の実は、自分たちが食べる分だけ取ったなら、後は、鳥のために残す気配りが必要である。

 時代や環境、自分の周囲の状況によって、刻々と微妙に変化する競争と協調の一見矛盾する均衡点を瞬時に適格に探り当てるバランス感覚は、人間にとって極めて重要な能力である。これは、学校の授業で教えてくれるものではない。先天的な差異はあるが、子供の頃に自然の中で遊び、友達や兄弟と小競り合いをして、無意識の内に身に付けるものである。

 歳を取って振り返ると、次のようなことも言える。子供の頃や若い頃は、視野狭小で、勝つために、がむしゃらに競争した。結果として、強さと能力に磨きは掛かるが、それと共に、相手の気持ちも分かるようになる。自分の痛みは相手にもある。歳を取るに連れ、自我意識は拡大し、協調の精神が自発的に生まれて来る。

長幼の序

 お祖父さん・お父さん・お兄さん・僕の順序、お祖母さん・お母さん・お姉さん・私の順序は、人間がまだ猿だった頃から、とても大切なものだった。隣の小父さんも、学校の先輩も、年少の僕にとっては、目上の人だ。昔の人は、人が社会で幸せに暮らすための知恵として、この感情・感覚から生まれる秩序を「長幼の序」と言って、大切にしてきたのである。

 誤解を避けるために付け加えると、民主主義の世の中では、「長幼の序」は、人間の価値順位に繋がるものでもなければ、命令を下すための権利順位に繋がるものでもない。この意味では、当然のことながら、年長者、年少者、共に、皆、平等である。だが、「年少者が年長者に敬意を払うことを知らない社会が平等な社会だ」と考えるのは大きな間違いである。

 「長幼の序」が示す意味・価値(或る種の感情・感覚が支える)を文化として共有すれば、社会は、この領域に於いて、混沌から秩序に向かうことができる。この点が重要なのだ。親と子が友達の関係にあれば、社会は混乱する。親が子を、子として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないし、子が親を、親として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないのである。

 平等ということを考える上で、「差別」と「区別」は異なったものである。所謂、「差別」が不平等を生む源泉であると定義すれば、「区別」は平等な社会にも必要なものとして定義できる。男女の区別、役割の区別などを考えれば、直ぐに分かる。男性が子供を産めないから不平等だという人はいないし、学校の先生が生徒を教育するのは不平等だという人もいない。

 「長幼」には、自然が人間に与える役割の区別がある。

野生のニワトリ・鶏舎のニワトリ

 野生のニワトリは、自分の力で餌を取らなければ生きていけない。うっかりしていると、他の動物の餌食になってしまう。雛にとっては、特に、その危険性は高い。卵は蛇が狙いに来る。いつも、気を使い、体を使って生きている。生きるのは本当に大変だ。だから、高い木の枝に舞い上がったり、少しの距離なら飛ぶこともできるのだ。

 一方、鶏舎のニワトリは、自分の力で餌を取りに行く必要はない。毎日、決まった時間が来ると、餌と水が与えられるから、あまり、気は使わないし、体も使わない。天敵の襲撃を恐れることもない。便利で安全、物質的に恵まれている。ただ、ずらっと並んだお仕着せのケースに入って生活しなければならない。そして、労働の成果として産む玉子は、人間に提供することになるのだ。年老いて玉子を提供できなくなったメンドリは、価値の無いものと見做され、処分される。

 現代の文化文明を顧みて、皆さんがニワトリだったら、どちらの生活を選ぶのだろうか。

集中の危険

 ここに、大きなクヌギの木がある。樹液が大量に噴き出て、味も香りも申し分ない。林のカブトムシたちの間で、噂はたちまち広まった。或る夏の夜に、カブトムシたちは、雄雌一ペアーを除いて、その木に一斉に集合した。だが、運の悪いことに、集まったカブトムシたちは、その時、丁度、待ち構えていた子供たちに一網打尽に捕獲されてしまったのだ。残ったペアーは言った。「だから、言ったのに」。もう、遅かった。集中の危険である。

 都市に過密状態で住むこと、満員電車に乗ること、渋滞の道路で運転すること、混雑する人気の娯楽施設や商業施設に行くこと、などを象徴している。有名で味も香りも良い樹液に、一斉に集まる人たちへの警告である。
 現代人の集中する悪癖は、大袈裟ではなく、このままでは、いずれ集団を破滅へと導く。

 人の生きる意義は、人真似をして生きることではないし、人が欲しいと言うものを欲しがって生きることでもない。人々の個性や事情は、皆、それぞれ違っている。生まれも、育ちも、違う。これからも違った人生を歩むに違いない。受けた情報は、自分自身で考え、自分自身で判断し、自分自身に合わせて処理しなければならない。そうすることで、初めて、自由意志の行使が可能になり、生きている意義が生まれるのである。

循環するグー・チョキ・パア

 昔から人間社会を動かす三つの大きな力についての話がある。一つ目は知力である。理性、論理、知識などを駆使し、分析、統合、整理して物事を考え、理解し、判断する力である。象徴的に学者と言う。二番目は軍事力、象徴的に軍人と言う。三番目はお金、象徴的に商人と言う。学者はグー、軍人はチョキ、商人はパアに例えられる。即ち、優劣はジャンケン通りということだ。

 事実、学者は商人に弱く(お金がなければ研究ができない)、軍人に強い(戦の大義を論理付け、また戦略を立てる)。軍人は学者に弱く、商人に強い(商売のベースである平和や秩序を破壊し、金品を奪い取る)。商人は軍人に弱く、学者に強い。そして、人間社会は、その優劣通りに循環するという。

 現在は、お金が一番のパアの時代であり、チョキの時代に向かいつつある。チョキの時代になって既存の秩序と富は破壊され、人々は壮絶な苦しみと悲しみを味わう。やがて、グーが台頭し、社会秩序と平和の再構築が始まる。グーの時代になると、パアが力を発揮して貧富の差が拡大する。パアによる不平等な平和社会が構築されて、一般民衆は、お金に支配され、自然を破壊し、職業家畜となっていく。社会に不満が充満し、内戦やテロが勃発する。チョキがこれら全てを破壊する。このような循環論であるが、確かに説得力がある。

 だが、これが、永遠に循環する訳ではない。「循環を保つバランスはいつか崩れ、次のバランスに向かう」というのが因果の法則である。

 チョキの時代には、そのバランスが大きく崩れ、水爆によって人類は絶滅するかも知れない。パアの時代には、自然破壊が度を越して、想像を超える大きな天変地異がやって来るかも知れない。進化して、新しい循環に移らなければならない。

愛してもその悪を知り・・・

愛してもその悪を知り、憎みてもその善を知る。

愛憎、好き嫌い、広い意味では、嫉妬、妬み、僻み等から、物事の善悪を判断すべきではないということである。

近頃、マス・メディア、インターネットに限らず、よく見られるものは、このような感情が正義を装って為される他者批判である。「悪いものは悪いとはっきり言うべき」だが、人を批判する時には、このことに注意しなければならない。

作用・反作用の物理法則は、心の世界を含めた因果の法則から生まれたものである。言い方を換えれば、心の世界にも作用・反作用の法則が働いているということだ。あなたが幸せを求めるのならば、この法則に気付かなければならない。

 

チームワークの成果

 外部環境からの影響を除外すれば、チームワークの成果は、チーム全体の力によって決まる。チーム全体の力は、チーム構成員一人ひとりの力の合成であるが、その合成に関わる構成員一人ひとりの相互関係性によって影響を受ける。

 全体を良くするためには、当然、一人ひとりが自己を磨かなければならない。だが、構成員である或る個人が力を付けることで、構成員である他者の力を歪めるような関係があれば、単純に、個々人が己の力を付ければ、全体が良くなるというものではない。全体として最大の出力を生み出す構成員一人ひとりの相互関係性が重要である。分かり易い言葉で表現すれば、そこに、調和や協調がなければならない。

  個人は、国家にも置き換えられる。世界が最大の出力を生み出すためには、それぞれの国家が、単純に、力を付ければ良いというものではない。そこに、バランスの取れた調和や協調がなければならないということである。

中真似と外真似、本物と偽物

 人は、誰でも、人真似をして育つ。そして、人真似には二種類ある。一つ目は、人の持っている何かに共感し、それを真似るものである。この場合は、中身に価値を見つけ出して、それを真似ているのである。これを中真似と呼ぼう。二つ目は、世の中で流行っているもの、有名人がやっているもの、その外形を真似るものである。中身そのものはどうでもよい。皆がやっているから、ただ、それを真似したいのである。これを外真似と呼ぼう。同じ人真似でも、この二つは根本的に違う。

 外から見てこの両者は、区別が付き難い。例えば、サッカーをやりたい少年がいる。この少年は、本当にサッカーが好きなのか、仲間が、皆、サッカーをやっているからやりたいのか、この区別は簡単には付かない。そもそも、半々ということもある。やりたい本人も分からないことが多い。

 外真似も馬鹿にしてはならない。やっている内に、本当に、中身に価値を見つけ出す者もいるからである。「石の上にも三年」、自意識過剰になって、自分探しをする若者には、これを勧める。

 一つ目、即ち、中真似は本物を作る。二つ目、即ち、外真似は偽物を作る。この意味で、嫌がるものを押し付ければ、偽物になるだけだ。世の中には、偽物の人間が圧倒的に多い。親や教育者、そして、社会環境に責任がある。子供を本物にしたい親は、この二種類の人真似について理解を深めて欲しい。世の中に本物が増えれば、世の中は進化し、世の中はさらに面白くなる。

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仕事と労働

 ここでは、「仕事は、好きで、天職と思って、自発的な形で働くこと」、「労働は、経済的理由、義務や強制などによって、自発的ではない形で働くこと」と定義しよう。この両者を混同させてはならない。社会的な外見から見れば同じように見えても、人の心にとっては根本的に違うものなのだから。但し、続けているうちに、自分にとっての意味と価値をその内に見出して、労働が仕事に変わることもよくある。そもそも、心の中で、初めから、仕事と労働が半々ということもある。

 現代に於いて、一番問題になるのは、お金のために嫌な労働をしているのだが、本人がそのことを自覚していない場合である。労働の中身そのものは、それほど嫌ではないが、その周囲の環境が慢性的なストレスを与える場合(過密居住、満員電車通勤、慢性騒音、空気汚染など)は、意識することがとても難しい。また、賃金の高さ、楽さ加減、勤め先の知名度などを基準に、自分に合わない、欝病を誘発するような労働に従事する人間も増えている。

 ここで、世間一般で言う労働法というものを考えてみよう。すると、ここで定義した労働という視点に立った考えだけが見えて来る。そこには、仕事という視点はない。仕事も労働と見做してこの法律は出来上がっているのだ。だが、人間が行う経済的活動には、明らかに、仕事と労働が含まれていて、それを同じに取り扱えば、社会的な矛盾が生じるのは必然である。その区別は微妙で難しいが、この区別をしっかり考えた上での労働法でなければ、目的である労働者保護は、却って、仕事をする人々、労働をする人々を困らせるものとなる。

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