ここはどこ?私はだれ?


10月初旬、友人2人と河口湖、山中湖へ出かけた。高速バスで河口湖駅へ着いたときに、ビックリ!駅前に大勢の人がいたが、日本語が全く聞こえなかった。友人と顔を見合わせて、「え!」と思い、出た言葉が「ここはどこ?私はだれ?」であった。日本人としての立ち位置が分からないままに、観光立国の宣伝、オリンピックの開催などが囃し立てられ、”おもてなし”という言葉も流行っているが、「本当に大丈夫なのかな?」と感じた。

人間と科学

科学は万能ではない。

自然の内で一番大きな概念は宇宙である。天文学と量子物理学、それに科学技術の発達に支えられた種々の計測・計算装置により、我々の宇宙観は徐々に精度を高めつつある。これは、これで素晴らしいことなのだが、その根底にある素朴な疑問、例えば、「時空間は、なぜ存在しているのか」、「物質と物質エネルギーは、どうして生じたのか」、「物理法則とその力は、どこから来たのか」などに、科学は答えることができない。

「無から有が生じる自然宇宙の全てが、やがては、科学的手法により理解され説明される」と考えるなら、それは、「科学が何であるのか」を根本から誤解している。

科学とは、感情や信仰から独立した理性により、或る固定された前提条件の下、同一の原因が同一の結果を生ずることを経験的に実証し、論理的推論と合わせて、これから、体系的法則を導き出すものである。従って、「科学の根本的な前提条件に当たるもの」や「その背後に存在するもの」を、科学の取り扱い対象にすることはできない。

それが科学というものであるのに、欧米流科学万能主義は、「非科学的」などという言葉を使って、「科学が実証できないものは存在しない、または、考える価値がない」などという社会的信仰を生み出している。そして、人間の限界を忘れ、自然と対立し、傲慢且つ強欲な物質文明を築いている。「人間は、そもそも自然の一部であり、その生存可能域が限定されている極めて弱い存在だ」という基本認識に欠けている。

一方、科学はまだ幼児の成長段階にある。謙虚な気持ちで前進すれば、前途洋々たる未来が待ち受けている。人間社会のためになることも明白だ。しかし、人間の感情から独立した理性の世界にある科学は、その利点と共に欠点も併せ持っている。

科学が技術と結ばれ社会活用される段階で、問題発生の恐れがある。科学とは別世界にある倫理感情が、科学者の心の中で科学に優先していなければ、科学技術は、悪魔的な兵器や武器の製造、そして、シェイクスピアの「ベニスの商人」に登場する血も涙もない高利貸し、シャイロック顔負けの冷血で金塗れの社会システム構築に利用される。

「科学には、何ができるのか、何ができないのか」を正確に理解することが、これからの時代には極めて重要になる。科学の限界を認識すると共に、一方で、今後の更なる科学の発展に多くを期待したい。

人間は科学の対象域よりもさらに大きな自然宇宙に存在していること、科学が成立するためには大前提が必要なこと、これらをしっかりと認識した上で、科学をさらに進化させる必要がある。実際、我々の文明にとって、科学とその技術は、重要且つ不可欠な存在である。より広い、より深い、より長い視野で、自然、人間、科学を理解することが、人々が永く幸せに暮らせる社会を築くことに繋がる。

大切な人


大切な人とは、何かをしてくれる人ではない。何かを持っている人でもない。何かができる人でもない。人間的な触れ合いができ、近くにいるだけで、自分にとって意味と価値のある大切な感情を心に湧き上がらせてくれる人のことだ。穏やかな安心感、元気で明るい気分、喜び溢れる楽しい気持ち、いつもの雰囲気など、自分にとって好ましい心の状態を無意識の内に生み出してくれる人である。

心の顕在領域に湧き上がるはっきりとした感情は、すぐ分かるが、潜在領域に静かにやって来る感情は、顕在化させることが難しい。これは、把握し難く意識的なコントロールが難しい分、人に与える影響が大きい。この種の感情にも、人を左右する重要な意味と価値が存在しているということだ。このような目で見れば、「空気のような人こそ大切な人」であることが分かる。

自分にとって大切な人は、自分との関係性の中で生まれるものだ。全人格的な触れ合いの中で大切な人となる。大切な人は、「どの人にとっても大切な人」ということも考えられるが、自分にとって大切な人は、普通、他人にとっては、「ただの人」である。この意味で、テレビに現れるスターは大切な人にはなり得ない。

「自分にとって都合の良いことをしてくれる人が大切な人だ」と言う人もいる。しかし、人間にとっての意味と価値は心の中で決定される。自分にとって都合の良いことをしてくれても、気付かず、或いは、理解できず、心に何も湧き起こらなければ意味を為さない。

人間の能力特性


或る心理学者の仮説によると、人間の能力特性は次の九つに分類される。

Naturalistic・・・自然や生物の実態・本質を感知・理解する
Musical・・・音、音程、諧調、リズム、音質などを感知・理解する
Logical-mathematical・・・論理的・数学的な
Existential・・・物や事の本質・存在を不思議がり探求する、哲学的な
Interpersonal・・・他者の感情や真意を感知・理解する
Bodily-kinesthetic・・・頭脳と体を連動させる
Linguistic・・・表現する適切な言葉を見つけ出す
Intra-personal・・・心の中にある感情・感覚・欲求を感知・理解する
Spacial・・・立体的に空間と形を視覚化する

この九つに分類される能力特性を、それぞれ独立したものと考える人もいるが、筆者の心の研究の視点に立てば、これらは、すべて、どこかで、重なり合い、融合している。人間の総体的な能力を見る場合、その特性の濃淡を見易くするための便宜的な基準と捉えれば、これはとても分かり易い。人間は、一つの能力が優れているからといって、すべてが優れている訳ではない。或る特性に於いては天才であっても、別の特性では平均以下ということはよくあることだ。

若者が政治をする

若者が政治をする方が良い。「若者を中心とする政党が政権を担って政治を行う」という意味だ。但し、若者は、経験不足で視野が狭い。単純論理に走り易い。目先の善悪や正誤にこだわって争う感情も強い。だから、それを補うために、老人の経験や知恵とのコラボレーションが大前提となる。善良で良識のある老人は、死を意識して社会に良いものを残そうとする。歳を取って、更に、欲張る者もいるが、その数は少ない。

多くのしがらみを社会で作ってしまった働き盛りの大人たちが、政権を握っていては、人間的或いは組織的な癒着から生じる歪みをどうやっても払拭できない。明治以来の体質が、今も尚、その底を流れる日本の官僚体制の改革は、極めて難しい。社会との様々なしがらみを持つ大人たちでは、この現実社会の行政実務を牛耳る官僚たちに真っ向から対抗することはできない。又、お金や票に直結する大組織とのしがらみを持つ大人たちでは、利益誘導型政治から抜け出すこともできない。働き盛りの大人たちには、働くことに集中して貰おう。

未来の政府は、偉そうに一般民衆を統治するものではなく、一般民衆が構成する社会の調整機構として、即ち、公僕として、機能するものである。若者よ!老人から、その経験と知恵を借りて、君たちの「これからの社会」は、君たちが自分たちで作れ。大人にお願いばかりしても、また、不平不満を漏らしても、無駄だ。若い君たちの方が、社会とのしがらみが少ない分、公正・公平な社会を作ることができるのだ。

これからの住宅について思うこと №2

都会では高気密高断熱住宅にしないと快適には生活が出来ないかもしれませんが、田舎暮らしでは息が詰まります。
昔の生活には戻れませんし、今とは周りの環境も違い仕方がないところもありますが、私なりに少し昔の住まいについて思うところを書いてみます。

茅葺きの家は屋根の勾配が早く屋根下地に竹を縛り、その竹に荒縄で茅を何重にも編むように縛って、雨が漏らないようにしてありました。
屋根の下では囲炉裏があり、薪を燃やしても煙は茅の間から外に出るようになっていました。
その茅葺きの屋根が温度や湿度を調節し、エアコンなどない時代に調温調湿の役割をしていました。
居室の前には必ず縁側(濡れ縁)が有り夏の暑さよけ・冬の暖房のクッションの役目をしていました。

私が子供のころはエアコンなどはなく、暑い夏の夜は窓は全開にし、部屋には蚊帳を張りその中で寝ていました。
夕方になると打ち水をし窓には風鈴などをぶら下げ色々な工夫をしていました。
私が思うにエアコン等の空調機械が普及するまでの日本の住宅は、いかに日本の夏(高温多湿)を快適に過ごせるかの工夫がありました。
逆に冬の寒さの対策はあまりなかったように思います。
ただ暖房は薪を燃やしたりしてある程度は改善できたのだと思います。
次回はこれから私の目指す楽しく、快適に生活出来るような家(風と光と木の家)について書いてみます。

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これからの住宅について思うこと №1

最近住宅関連の用語で良く聞く言葉ですが、ZEH(ゼッチ)とはゼロ・エネルギー・ハウスの略で外皮の断熱性能等を向上させ、高効率な設備システムを導入して年間の一次エネルギー消費量のゼロにする事を目指した住宅のことです。

簡単に言うと家全体の断熱性を上げ、窓等は高断熱窓、照明・空調・給湯器は高効率にし屋根には太陽光発電、それをHEMS(ヘムス)(ホームエネルギーマネージメントシステム)家庭で使うエネルギーをモニター等で監視するシステムで、政府は2030年までに全ての住まいに設置する事を目指しています。

これから国が目指す住宅は高気密高断熱で、機械で空調等の管理をした住宅を作る。限りある資源を守るのも必要ですが、田舎暮らしでは息が詰まります・・・。

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新しく優れたものは・・・

新しく優れたものは、それが世に出た時、社会から理解されることは極めて少ない。
もし、直ぐに高い評価を受けるならば、そう評価する人達が、既に、多数、社会に存在することになり、「それは新しいものではない」ということになる。

既成の知識層やマス・メディアが、理解しようとしない、注目することのないところで、 日々、地道に、努力を積み重ねている「名も無き人々」の土台作りによって、真の社会進歩は支えられているのだ。

モッタイナイ(一握りのお米)

今日、食べるお米がなくなり、買いに走った。玄米が食べたくて、新米(ちょうど新米の時期)を探した。うまく見つかり、その店にある精米機に向かった。白米は、食味は良いが栄養価は低い。玄米はその逆である。その「良いとこ取り」をしようと、三分搗きの精米を考えたのだ。

5キロの精米が終わり、袋に入れて機械周りの清掃をしたところ、前の人達の分も含めて、床に落ちたお米が手のひら一杯程集まった。それを見て、ふと思った。

モッタイナイ!今日は9月15日です。8月15日(終戦記念日)から1か月です。昭和20年のこの日に、これだけのお米が掃き捨てられるのを見たら、当時の人たちはどう思ったでしょう?

マモン

皆さんもご存知の通り、マモンとは、旧約聖書に登場するお金・財・富の神様である。本来、人間は本物の神様のしもべである筈なのだが、その時代、放っておくと、マモンのしもべに成るものが続出した。そこで、神様は警告する。「私とマモンの両方に仕えることはできない」と。

現代を生きる我々に対し、もう一度、この言葉が発せられるかも知れない。そもそも、マモンは、「人間の欲望と仲間への信用」から生まれた、人間(集団全体)に仕えるためのパワーである。お金に着目して簡単に言ってしまえば、「人間は、本来、お金の主人公」ということだ。お金は、人間によって、大いに利用されなければならない。

お金は、人間社会を回り歩くことで、そのパワーを発揮する。日本では、昔、その性質を見抜いて、お金をお足と呼んでいた。お足を使って豊かになることを知っている人達は大商人と呼ばれた。

だが、欲が過ぎて、社会全体を顧みず、自分達だけにお金を留めて置こうとすると、立場は逆転して、「人間がマモンの奴隷になる」という法則がある。お金は、程々に、有効に、使わなければならない。この法則にも目を向けなければならない時代が来ている。

カマキリ

或る日の夕暮れ時、帰宅を急ぎ愛車に乗り込んだ。シートベルトをつかむため、少し右を向く。あれ?窓に大きな緑色の動くものが!! なんとカマキリである。どうしてこんな所にいるんだ?車に乗り込む時に、なぜ気付かなかったのだろう。

人は、見ている積りでも、意外と見ていないものです。「見ようという意識」が働いていない時には、こんなにも無防備なのです。

 

世の中に幾億万の母あれど・・・

 「世の中に幾億万の母あれど、我が母親に、優れる母なし」という歌がある。これをどう読むかで、人間の大きさが異なる。そして、その人間の乗り越えなければならない課題も分かるのである。

 自分の母親だけが特別な存在で、自分の母親だけが世界一だと素朴に読む。それは、それで美しい。だが、その背景に、自分は、特別な存在だという稚拙な思い込みがある。

 「この作者は、普遍的な人間性と一体化した自分を実感して、その上で、改めて、自分の母親を至上のものとして詠っている」と考えたらどうだろうか。普遍的な母親の愛の本質に触れることで、この歌は、逆に、幾億万の人々のエネルギーを伴って、心に迫って来る。幾億万の母親の様々な異なる愛とその愛それぞれを至上のものと感じる幾億万の人々の思いが凝集されて、強烈に、胸に迫って来るではないか!

人類絶滅の日は・・・

 物質面だけで生命を捉えた場合、人類絶滅の日は、必ずやって来る。「そんな先のことを心配するな」と言う人が多いかも知れない。しかし、それは意外と近くにまで迫っている。

 太陽系の3番目の惑星、地球、人類をはじめ数多くの生物が棲む天体、年齢は46億歳。表面は窒素と酸素を主成分とする大気に包まれ、水がある。衛星は一つ、月である。現在、72億の人類が生息する。

 この地球に生命が誕生したのは、今から約38億年前、生命は、現在に至るまで、進化と部分絶滅を繰り返している。大量絶滅と言われる出来事は、過去5回あったとされ、有名なものが、約6千6百万年前の恐竜絶滅である。メキシコのユカタン半島付近に落ちた直径10キロ程の小天体が、1億7千万年の長期にわたって地球を支配していた恐竜を絶滅させた。この時、同時に、地球上の約80%の生命が死滅したと推定される。

 恐ろしいのは、これからの話である。専門研究家がコンピュータに大量のデータを投入して、地球上の生物絶滅速度を計算した。その結果、生物絶滅の最速時期は「現代」と算出されたのである。過去5回の大量絶滅を超して。我々の時間感覚では実感できないものの、地球時間で見れば、これまで地球が経験したことのない速さで、現在、地球上の生物が消滅している。

 もう、皆さんもお分かりの通り、これは、人類の仕業である。利便性の高い、物質的な豊かさを享受する現代文明のもう一つの側面は、地球に過大なダメージを与えるものなのだ。多くの生物が消滅してしまった地球上で、人類だけが生き残れる筈はない。人類の叡智が試される時代に入っている。

理系・文系

 理系・文系という概念は、日本人が発明したのかもしれない。他国の人に比べて、直ぐ口にする。この世界が、理系と文系で、明確に2分されている様な印象を与える。理系事象と文系事象は、実際には、絡み合っていて、明確に分離できない。或る前提条件の範囲内に理系事象を閉じ込めて、初めて、この分離は成立するのである。

 「私は理系だから文系のことは理解できません。」、「私は文系だから理系のことは理解できません。」などと言うのは、決して、建設的な発言ではない。「私は、知的に偏っています。多視点に立つ努力を放棄し、思考範囲を狭めています。」と言っている様に聞こえる。 

 理系・文系を超えた分厚い教養基盤の上にこそ、理系であれ、文系であれ、美しい専門の花が咲くのである。

競争と協調

 我々は子供の頃、「一生懸命やって、学業成績を上げろ、運動会で一等賞を取れ」などと言われた。それで、頑張って競争し勝ってみたら、今度は、「協調精神が足りない」などと注意される。人間は、レイモンド・チャンドラーの小説で探偵フィリップ・マーロウが言ったように、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」のかも知れない。

 切磋琢磨し競争しなければ、個人としても社会としても、進歩・向上がない。だから、競争は必要である。しかし、協調がなければ、その進歩や向上は、個的なものにとどまり、社会的な相乗効果が期待できないばかりか、社会的な累積も難しい。さらに、秩序は失われ、競争は激化し、争いが蔓延し、少数の勝者のみが生き残る。結果として社会は衰退する。

 我々は、自分を狙う犯罪者に優しくするのは難しいが、相撲で勝負した相手には、侮蔑ではなく礼を持って接する方が良い。山の柿の実は、自分たちが食べる分だけ取ったなら、後は、鳥のために残す気配りが必要である。

 時代や環境、自分の周囲の状況によって、刻々と微妙に変化する競争と協調の一見矛盾する均衡点を瞬時に適格に探り当てるバランス感覚は、人間にとって極めて重要な能力である。これは、学校の授業で教えてくれるものではない。先天的な差異はあるが、子供の頃に自然の中で遊び、友達や兄弟と小競り合いをして、無意識の内に身に付けるものである。

 歳を取って振り返ると、次のようなことも言える。子供の頃や若い頃は、視野狭小で、勝つために、がむしゃらに競争した。結果として、強さと能力に磨きは掛かるが、それと共に、相手の気持ちも分かるようになる。自分の痛みは相手にもある。歳を取るに連れ、自我意識は拡大し、協調の精神が自発的に生まれて来る。

長幼の序

 お祖父さん・お父さん・お兄さん・僕の順序、お祖母さん・お母さん・お姉さん・私の順序は、人間がまだ猿だった頃から、とても大切なものだった。隣の小父さんも、学校の先輩も、年少の僕にとっては、目上の人だ。昔の人は、人が社会で幸せに暮らすための知恵として、この感情・感覚から生まれる秩序を「長幼の序」と言って、大切にしてきたのである。

 誤解を避けるために付け加えると、民主主義の世の中では、「長幼の序」は、人間の価値順位に繋がるものでもなければ、命令を下すための権利順位に繋がるものでもない。この意味では、当然のことながら、年長者、年少者、共に、皆、平等である。だが、「年少者が年長者に敬意を払うことを知らない社会が平等な社会だ」と考えるのは大きな間違いである。

 「長幼の序」が示す意味・価値(或る種の感情・感覚が支える)を文化として共有すれば、社会は、この領域に於いて、混沌から秩序に向かうことができる。この点が重要なのだ。親と子が友達の関係にあれば、社会は混乱する。親が子を、子として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないし、子が親を、親として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないのである。

 平等ということを考える上で、「差別」と「区別」は異なったものである。所謂、「差別」が不平等を生む源泉であると定義すれば、「区別」は平等な社会にも必要なものとして定義できる。男女の区別、役割の区別などを考えれば、直ぐに分かる。男性が子供を産めないから不平等だという人はいないし、学校の先生が生徒を教育するのは不平等だという人もいない。

 「長幼」には、自然が人間に与える役割の区別がある。

集中の危険

 ここに、大きなクヌギの木がある。樹液が大量に噴き出て、味も香りも申し分ない。林のカブトムシたちの間で、噂はたちまち広まった。或る夏の夜に、カブトムシたちは、雄雌一ペアーを除いて、その木に一斉に集合した。だが、運の悪いことに、集まったカブトムシたちは、その時、丁度、待ち構えていた子供たちに一網打尽に捕獲されてしまったのだ。残ったペアーは言った。「だから、言ったのに」。もう、遅かった。集中の危険である。

 都市に過密状態で住むこと、満員電車に乗ること、渋滞の道路で運転すること、混雑する人気の娯楽施設や商業施設に行くこと、などを象徴している。有名で味も香りも良い樹液に、一斉に集まる人たちへの警告である。
 現代人の集中する悪癖は、大袈裟ではなく、このままでは、いずれ集団を破滅へと導く。

 人の生きる意義は、人真似をして生きることではないし、人が欲しいと言うものを欲しがって生きることでもない。人々の個性や事情は、皆、それぞれ違っている。生まれも、育ちも、違う。これからも違った人生を歩むに違いない。受けた情報は、自分自身で考え、自分自身で判断し、自分自身に合わせて処理しなければならない。そうすることで、初めて、自由意志の行使が可能になり、生きている意義が生まれるのである。

科学と倫理の大前提

 科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)、そして、倫理感情を支える絶対感・真理感は、共に、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にある。
  しかし、それでも、科学や数学は、そのような前提の上に、客観的で確固たる体系を築くことができた。これをベースにした様々な技術の累積は、今や、物質宇宙に大きな影響を与える水準にまで達している。一方、倫理と言えば、3000年前のギリシャと比べて、殆ど進化していない。このギャップが、現代の文化文明を危険な道へと導いているのである。

 この危険な道から脱却するためには、人間の心に湧き上がる倫理感情に更なる力を与え得る新しい哲学が必要となる。その昔に作られた宗教や哲学は、多くの点で、科学や数学の客観的で確固たる体系の力によって修正されなければ、現代に通用しないのだ。
 宗教に潜む独善主義(例えば、教祖への盲信や原典主義)は、明らかに、時代遅れである。古くからある哲学の諸説も、科学的・論理的な矛盾があれば修正しなければならない。また、人間の能力では客観的な証明のできない、科学の対象範囲を超えた前提は、仮説として謙虚に提示されなければならない。

 一方、科学や数学も謙虚でなければならないのである。なぜなら、前述の通り、科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)は、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にあるからだ。宇宙の全てが、科学や数学的手法で解明されることはない。人間の能力を超えた領域を土台にして科学や数学が成り立っていることを忘れてしまっては、便利で物質的に豊かな現代文明も永続きはしないのである。

循環するグー・チョキ・パア

 昔から人間社会を動かす三つの大きな力についての話がある。一つ目は知力である。理性、論理、知識などを駆使し、分析、統合、整理して物事を考え、理解し、判断する力である。象徴的に学者と言う。二番目は軍事力、象徴的に軍人と言う。三番目はお金、象徴的に商人と言う。学者はグー、軍人はチョキ、商人はパアに例えられる。即ち、優劣はジャンケン通りということだ。

 事実、学者は商人に弱く(お金がなければ研究ができない)、軍人に強い(戦の大義を論理付け、また戦略を立てる)。軍人は学者に弱く、商人に強い(商売のベースである平和や秩序を破壊し、金品を奪い取る)。商人は軍人に弱く、学者に強い。そして、人間社会は、その優劣通りに循環するという。

 現在は、お金が一番のパアの時代であり、チョキの時代に向かいつつある。チョキの時代になって既存の秩序と富は破壊され、人々は壮絶な苦しみと悲しみを味わう。やがて、グーが台頭し、社会秩序と平和の再構築が始まる。グーの時代になると、パアが力を発揮して貧富の差が拡大する。パアによる不平等な平和社会が構築されて、一般民衆は、お金に支配され、自然を破壊し、職業家畜となっていく。社会に不満が充満し、内戦やテロが勃発する。チョキがこれら全てを破壊する。このような循環論であるが、確かに説得力がある。

 だが、これが、永遠に循環する訳ではない。「循環を保つバランスはいつか崩れ、次のバランスに向かう」というのが因果の法則である。

 チョキの時代には、そのバランスが大きく崩れ、水爆によって人類は絶滅するかも知れない。パアの時代には、自然破壊が度を越して、想像を超える大きな天変地異がやって来るかも知れない。進化して、新しい循環に移らなければならない。

二種類の噓

 「事実と異なることを、故意に人に話すこと」を嘘と定義するなら、嘘には二つの種類がある。一つは、人をおとしめて自己の利益を図るためのもので、悪い嘘である。もう一つは、人を喜ばせ元気にするためのもので、良い嘘である。

 良い嘘は、世の中では嘘と言わないかも知れないが、これらは人間社会を豊かにする大切なものである。逆の言い方をすれば、「何でも、真実を告げれば良い」という考えでは、人間社会は成り立たないということだ。挨拶で、「お元気ですね」という代わりに、真実を尊重して、「老けましたね」などと言う人は、どこか狂っている。人間は、無意識に、心が、感情が、合理性や論理性に優先して生きている。思い遣りが、故意に、事実の表現を歪めることもある。しかし、これは、倫理性に劣るわけでもなく、論理性に欠けるわけでもない。

 物質万能主義や合理主義に慣らされると、この辺りの微妙なバランスが分からなくなって来る。インターネット上の悪意情報は、嘘も真実も含めて問題外としよう。今、問題とするのは、善意と公共性を前提とするマス・メディアに、この点での勘違い(分かっていて遣っている?)が多く見られることだ。支配層による「言論の自由圧迫」は許されるものではない。だが、マス・メディアは、倫理的側面を考慮して、自発的な報道の抑制が常に必要なのである。例えば、それが事実であれば、報道された者やその親族の悲しみを無視して、ニュースに取り上げて良いものだろうか。そのニュースが、ミーハーたちの単なる興味を掻き立てるだけのものであれば、尚更だ。それが視聴率を上げる目的であれば最悪だ。例えば、犯罪ニュースにしても、その表現は慎重に為されなければならない。社会に対する一種の警報の積もりでも、本音が興味本位の報道であれば、犯罪の模倣を招く伝染媒体となるだけである。

チームワークの成果

 外部環境からの影響を除外すれば、チームワークの成果は、チーム全体の力によって決まる。チーム全体の力は、チーム構成員一人ひとりの力の合成であるが、その合成に関わる構成員一人ひとりの相互関係性によって影響を受ける。

 全体を良くするためには、当然、一人ひとりが自己を磨かなければならない。だが、構成員である或る個人が力を付けることで、構成員である他者の力を歪めるような関係があれば、単純に、個々人が己の力を付ければ、全体が良くなるというものではない。全体として最大の出力を生み出す構成員一人ひとりの相互関係性が重要である。分かり易い言葉で表現すれば、そこに、調和や協調がなければならない。

  個人は、国家にも置き換えられる。世界が最大の出力を生み出すためには、それぞれの国家が、単純に、力を付ければ良いというものではない。そこに、バランスの取れた調和や協調がなければならないということである。

中真似と外真似、本物と偽物

 人は、誰でも、人真似をして育つ。そして、人真似には二種類ある。一つ目は、人の持っている何かに共感し、それを真似るものである。この場合は、中身に価値を見つけ出して、それを真似ているのである。これを中真似と呼ぼう。二つ目は、世の中で流行っているもの、有名人がやっているもの、その外形を真似るものである。中身そのものはどうでもよい。皆がやっているから、ただ、それを真似したいのである。これを外真似と呼ぼう。同じ人真似でも、この二つは根本的に違う。

 外から見てこの両者は、区別が付き難い。例えば、サッカーをやりたい少年がいる。この少年は、本当にサッカーが好きなのか、仲間が、皆、サッカーをやっているからやりたいのか、この区別は簡単には付かない。そもそも、半々ということもある。やりたい本人も分からないことが多い。

 外真似も馬鹿にしてはならない。やっている内に、本当に、中身に価値を見つけ出す者もいるからである。「石の上にも三年」、自意識過剰になって、自分探しをする若者には、これを勧める。

 一つ目、即ち、中真似は本物を作る。二つ目、即ち、外真似は偽物を作る。この意味で、嫌がるものを押し付ければ、偽物になるだけだ。世の中には、偽物の人間が圧倒的に多い。親や教育者、そして、社会環境に責任がある。子供を本物にしたい親は、この二種類の人真似について理解を深めて欲しい。世の中に本物が増えれば、世の中は進化し、世の中はさらに面白くなる。

GAIAGAIA

仕事と労働

 ここでは、「仕事は、好きで、天職と思って、自発的な形で働くこと」、「労働は、経済的理由、義務や強制などによって、自発的ではない形で働くこと」と定義しよう。この両者を混同させてはならない。社会的な外見から見れば同じように見えても、人の心にとっては根本的に違うものなのだから。但し、続けているうちに、自分にとっての意味と価値をその内に見出して、労働が仕事に変わることもよくある。そもそも、心の中で、初めから、仕事と労働が半々ということもある。

 現代に於いて、一番問題になるのは、お金のために嫌な労働をしているのだが、本人がそのことを自覚していない場合である。労働の中身そのものは、それほど嫌ではないが、その周囲の環境が慢性的なストレスを与える場合(過密居住、満員電車通勤、慢性騒音、空気汚染など)は、意識することがとても難しい。また、賃金の高さ、楽さ加減、勤め先の知名度などを基準に、自分に合わない、欝病を誘発するような労働に従事する人間も増えている。

 ここで、世間一般で言う労働法というものを考えてみよう。すると、ここで定義した労働という視点に立った考えだけが見えて来る。そこには、仕事という視点はない。仕事も労働と見做してこの法律は出来上がっているのだ。だが、人間が行う経済的活動には、明らかに、仕事と労働が含まれていて、それを同じに取り扱えば、社会的な矛盾が生じるのは必然である。その区別は微妙で難しいが、この区別をしっかり考えた上での労働法でなければ、目的である労働者保護は、却って、仕事をする人々、労働をする人々を困らせるものとなる。

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言葉には限界がある

 色々な角度・視点から何回も繰り返して物事を見ないと、正しい判断はできない。周囲の環境との絡みをできるだけ多く把握しないと、物事の判断を誤る。しかも、周囲の環境は刻々と変化する。だから、一つの固定した視点からの物言いは、別の視点から見た時、おかしなものになることが多いのである。
例えば、「本当のことを言わないのは悪いことだ」という言い方がある。或る特定の前提に於いて、それは正しい。別の前提に於いて、それは誤りである。窃盗犯が本当のことを言わないのは悪いことだが、知り合いの老人に、挨拶で、「随分老けましたね」などと本当のことを言うのは良くないことだ。

 ギリシャの哲学者、ゼノンのものとされる有名な話に「アキレスと亀」がある。「俊足のアキレスは鈍足の亀に無限に近づきはするが決して追いつくことはできない」という話である。
・・・アキレスが亀を追いかけ、亀のいた地点に到着すると、亀はそれなりにその地点より先に進んでいる。次に、アキレスは、亀が進んだその地点に向かうが、アキレスがその地点に到着した時、亀はそれなりにまた先に進んでいる。このような繰り返しが永遠に続くだけで、アキレスは決して亀に追い着くことはできない。・・・
だが、この話は、アキレスが亀に追いつく寸前までの時間と距離を次々と無限に細分割する前提になっているのだ。

 前提条件によっては、「1+1=2」も、おかしなものになる。砂利一杯のバケツと砂一杯のバケツを合わせると、バケツ二杯にはならない。

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不動明王の怒りと観音の悲しみ

 怒りについて話そう。「自分の立場しか視野に入らず、人間を怒りの対象として、破壊しようとするもの」と「他者の立場にも立ち、不公正や不公平を含めて悪を怒りの対象とし、それを破壊しようとするもの」の二つがある。
  後者の怒りを「不動明王の怒り」と呼ぶ。両者の違いを見分けるのは、極めて簡単である。前者は、人間に対する怒りであるから、自分自身の心身も破壊する。嫌な後味が残る。いつも怒っていると、自分自身の胃腸や十二指腸が破壊される。後者の怒りは、悪に対する怒りであり、嫌な後味はない。自我の拡大を伴う大きな愛の感情に支えられて晴れやかな安定感が残る。悪を実行した人間に対しても、愛の感情を注いでいるのである。罪を憎んで人を憎まず、悪を破壊し人を労わる。

ノウマクサンマンダバザラダンゼンダマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン
不動明王真言

  悲しみについても、同じことが言える。「自分のことだけの悲しみ」と「その自分の悲しみを乗り越えて悟った他者の悲しみ、即ち、他者の立場に立った悲しみ」の二つがある。 後者の悲しみを「観音の悲しみ」と言う。自我の拡大を伴う大きな愛の感情の中に同情や共感がある。

オンバザラタラマキリク
千手観音真言

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泣きと笑い

 感情が高まり、緊張やストレスが或る限界に達すると、それを無意識的に、且つ、一気に崩す仕組みが、心と体に連携して作られている。

 喜びと悲しみはコインの表裏である。喜びと悲しみが限界に達すれば、涙が出る。恐怖の場合には、失禁が生じる。ちなみに、オオクワガタの幼虫にも恐怖の感情が湧き上がる。オオクワガタの飼育をした人の多くは気付いているだろうが、菌糸瓶への入れ替え時に、急に箸で摘まんだりすると、恐怖の余り脱糞する。
この種の感情は、本能として、小さな脳の昆虫にも湧き上がるのだ。「感情とは何か、どこに存在するのか」を考える絶好のきっかけとなる。「お前はオオクワガタではないのに、なぜ、その感情が分かるのか」と言う人がいる。その質問に対する答えは、「他人の感情を直感するのと同じだ」と言うしかない。
創造主・自然の力は素晴らしいもので、この脱糞は、敵をびっくりさせる効果もある。また、少しでも体をスリムにして穴に逃げ込み易くする効果もある。オオクワガタに馴染みのない人は、蝉の小便を思い出して欲しい。

 少し、複雑なものが笑いである。基本的には、前述の仕組みと同じだ。緊張の消失に伴う安心感や満足感の中での笑い、緊張を保っていた認識に突然のずれが生じ一気に緊張が解けて安心した時の笑いなどがある。前者は、赤ん坊の笑いやホッとした時に出る柔らかな笑いだ。後者は、ジョーク、ユーモア、ウィットなどで、高度に選別されている。謎掛け遊びの中にも潜んでいる。単なるストレス解消から、人生を楽しくするもの、人付き合いでのトラブルを避けるものまである。文化的にも、社会的にも、とても大切なものだ。
さらに、笑いは複雑である。社会的な意思表示として、意識的に作ることもある。これらには、他の感情も入り混じっている。笑って、逆に、それに相応する心の状態を作るのだ。愛想笑い、作り笑い、ネガティブなものでは、嘲笑などが考えられる。
笑いとは、体の動作と心の状態が繋がって循環運動をしているものだ。どちらが先でも構わない。笑う門には福来たる。心が笑えば、体が健康になる。体が笑えば、ストレスから解放されて、心が健やかになる。

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